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拙著「小林秀雄論」より抜粋


拙著「小林秀雄論」より抜粋

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――『今や私は自分の性格を空の四方にばら撒いた、これから取り集めるのに骨が折れる事だろう。』このボードレールの言葉を小林秀雄は『✕への手紙』に引用し、さらに自らを『――俺は今この骨の折れる仕事に取りかかっている。もう十分に自分は壊れてしまっているからだ』と告白する。
 骨の折れる仕事とは何か、それは単に「いかにかすべきわが心」という思いで佇み、身動きしないというわけにはいかぬ。言わばいかにこの世が「地獄絵」で、それを全身で感じ、観た者はただ「虚空遍歴」などするわけにはいかぬ。百年前だったらランボーのように砂漠へと、人々に別れを告げ、ざらざらとした現実の中でのたうち、自減出来たかもしれぬが、時すでに遅く「前例」がいる。
 ――断じて架空のオペラを演じない事。それにしても、自己のバラバラになった意識をいかに生々しい現実の中に復活させるか?変容せしめるか?果してその受け継いだ「事業」をどこまで成し得るか? ここで小林秀雄の自己自身の内的戦いの末の表明が、覚悟があの『批評家失格』という文章を書かせた。公人から私人への移行、それもべらんめえ調の。彼の表現には、なるほど他人が誤解するような言葉が沢山書かれている。むろん本音もウソも、何もかもそれこそ「ごった煮」の如く。
『作家というものは、生み出そうと足掻いているだけだ、現実とできて子供が生みたいと希っているだけだ。なにも壊そうとはしていない。』、本音である。『芸術の、一般の人々の精神生活、感情陶冶への寄与、私はそんなものを信用していない。』、これは嘘である。
『批評と創造との間には、その昔、無機体が有機体に移ったような事情があるのであろう。正しくつながりがあろうが、また、正しく隙間があるのであろう。』、これは彼の人間に対する現実の直視と、事実とを敢えてあやふやにした「いかにかすべきわが心」の思いから出た複雑な言葉である。敢えて言えば、名状し難い苦痛と悲哀の叫びが文章の底流に鳴り響いている。

「――地獄絵の前に佇み身動きも出来なくなった西行の心の苦痛を、努めて想像してみるのはよいことだ」と。

 これはそのまま小林秀雄自身の姿にも当てはめることが出来る。彼は相手の眉間を割る覚悟はいつも失うまい、と言った。だが彼は一度たりとて相手の眉間を割ったことはない。彼に対する攻撃の急所、隙はまさにここにある。情の脆さである。その脆さが、その情が深く緻密でなければ人生を達観する「仙人」と化す。仙人面した物分かりの良い浅はかな人種、それを彼はインテリと呼んだ。それにしても、それにしてもである、彼は相手の眉間を割ることは無く、常に「寸止め」をする、――。

 他人を切り刻む前に自分を徹底的に切り刻んでいるからだ。彼が論じたランボオ然り、ニーチェ、西行、その他然り――。彼の取りあげた人物達には自己の宿命と似た所謂「愛と認識の殉教者」が多かった。同じ心、つまり「いかにかすべきわが心」の思いをもって人生を「のたうちまわった」人物達の魂が、その思いが小林秀雄の表現の原動力であった。だから『探る眼はちっとも恐かない、私が探り当ててしまった残骸をあさるだけだ』とか、『私は、理智を働かせねば理解出来ぬような評論を絶えて読んだ事がない(私の評論などは言わずと知れたこの部類だ)』などと自負と必要以上の謙虚さをわざと入り混ぜて「自・他」を同時に戒める。

 パスカルではないが『つけ上がるなら、おとしめてやろう。卑下するなら、ほめ上げてやろう。わたしは、あくまでさからいつづける。かれがとうとう、さとるまで、わけのわからぬ化け物みたいな自分のさまを。』(パスカル著 パンセ・四二〇、田辺保訳)


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