拙著「小林秀雄論」より抜粋
拙著「小林秀雄論」より抜粋
(前略)
人は誰でも生ある限り自衛本能を有している。生身の個的肉体から理念や観念、教義、次元を問わず、自己にとって最も大事であるものを守ろうとする。だが、それが単なる個人性と結びつき現われる限りにおいては、何ぴとといえども「善悪」という価値基準の尺度を乱用、用いることは許されぬ。――本来人が人を裁くことは出来ぬ。
「何々の名において」人は人を裁く。形無き所に人々は不安を感じる。何かの「権威」に依存したがる。だが、この世でまるきり尺度を持たぬ人は現実的には「白痴的存在」となる。尺度が無ければ何も判断出来ぬからだ。ゴッホの様に「地上の絆以上のものと結びついている者」、ハムレットのように父の「亡霊」を見た者、心眼をもって日常が「地獄絵」に観える者、等々。この地上的悟性で証明出来ぬものを体験、所有した存在は「狂気」に至るか、「白痴」しか生存の道はない。実生活と交流、絆を、方法を見い出し得ぬ限りは。
「尺度」とは自明の事だが何人といえども所有している。何も理性だけで判断するわけではない、感情でも判断する。むろん、理性は存在する。最終的な判断は理性が決定する。問題はその「理性」の核となっている「世界観」である。ふつうは「理性」と個人の「自我」との区別は判然としてはいない。あらゆる視点や観点がごっちゃに共存し、もつれ、その場その時の状況によって変化している。
ゆえに人は自己保存の為の「土台」を必要として、自己の肯丈に応じたものの反応、見方、考え方、視点を所有する。当然といえば当然である。だが「悟性と心性」が結びつかぬ限り、常に尺度は不安定であり、外的状況に常にゆさぶられ、依存する。キリストのごとく「人はパンのみに生きるにあらず」と言えば「パンのみに生きている人々」によって十字架にかけられるであろう。「死んで花実が咲くものか」に代表される視点である。だがこのたとえは人間に当てはめると正確さを欠く。花は死なねば「種子」を宿すことは出来ぬ。言語表現のやっかいさである。いくらでも論理は擦り替えられるのである。自明の事だがパンはパンである。肉体を維持するために欠かせぬ養分である。キリストは「パンのみにあらず」、と「のみに」と言ったのである。
では、いわゆる魂のパンは何か?「魂なんぞ人間には無い、いわゆるその意識は大古の未開人の無知の意識、すなわち幻想である。――夢である、君は神が死んだ!というあの言葉を知らぬのか!」と。ドロ試合のくり返しである。――「死して成る」という言葉もあるのだ。
本当の尺度とは「悟性と心性が結びつく事」しかない。どこまで深く緻密に感じるか、汲みとる」ことが出来るか、しかない。その意味では「尺度」など在って無きがごとしである。感じるとは全身全霊で知覚することであり、何も五感だけが知覚ではない。心の動きも、想念も、思考すらも知覚の一部にすぎない。ただ、それを現実に万人に証明することが難しいというだけにすぎぬ。(後略)