【完全図解】ありがとう習慣【心の劇変】
僕が実感した「ありがとう習慣」による心の劇的変化を図解します。
(メンタル面で悩める方に役立つといいなーな記事です)
まず「ありがとう習慣」開始前、僕は当時勤めていた会社で非常に窮屈な状態でした。
図解すると、おおむねこのような心模様。
名付けて「コンニャロ状態」
ブラック企業なんかで揉まれると大体の人は、知らず知らず、このような状態になってしまうのではないでしょうか。
自分があるようで無くなっている状態。
社会や会社、クソ上司などの論理が最優先で、
本来的自己を表現できる領域が乏しいというか。
滅私奉公的で、内心「コンニャロ〜!!」という思いが慢性的に高まっているので「コンニャロ状態」と命名。
別に専門用語でもなんでもありません笑
ちなみに僕が後に「パワハラじゃボケが!!」と徹底抗戦した御仁たちは、こんな精神構造に見えましたね〜。
僕は幸か不幸かハングリー精神高め、自己効力感もそれなりに強いので、あらゆる抑圧、プレッシャーには
静かなる炎で心折れず対抗していたのですが、
この状態は、自分があるようで実は本来的自己を見失っていると言えなくもない。
なぜなら常に「会社」「クソ上司」など他者有りきで、それに対抗する位置に「自分」を築いているからですね。
要するに暴風に思いきり揺さぶられている状態。
お釈迦さまなら悟りの境地なので、どこ吹く風でしょうが、当時の僕は全然そんなわけにはいかなかった。
だから世間のゴシップなどにも煽られて、
「あの芸能人はけしからん!」とか
「日本の政治は一体どうなってるんだ!!」とか
大して政治も芸能界も興味がないくせ
青筋を立てたりしていた気もします。
(要するにイライラしてたんでしょうね)
なので一歩間違えば、下記のような鬱状態になりかねない危うさも。
ちなみに、そういう中でも僕が自身を保てていたのは、
僕に立ちはだかるラオウたちの向こう側に下図のような心理状態が見え隠れしていたからですね。
しかしながら僕は長らく下のような精神状態で、ブラック企業でヒーヒー言いながら働いていました。
①他者側:今日も会社に行かなければ
②自己側:嫌だけど行くか
③他者側:(何か失敗をしでかして怒られる)
④自己側:へこむなぁ。はー、会社勤めなんてやだな。
⑤他者側:(会社から「市場価値をあげろ!」などと圧力)
⑧自己側:…くそー。転職したいなー。
⑨他者側:でも働かきゃ生きていけないしな、転職も大体、失敗するっていうしなー。はぁ、やるしかない。
⑩自己側:(毎日終電で帰宅)……人生ってなんだっけ??
こんな感じ。完全に自分を見失っている。
自分の意志でこの道を選んだ、俺はここでやるぜ!と腹をくくっているならまだしも、環境の劣悪さもあいまって自分は社会(他者)の被害者という意識がどこかにある。
実際、被害者でもあったんだけど。
でも自分の意思で、その場から脱出することもできない。
脱獄を諦めた冤罪者のような絶望感。
だから、いつでも楽しくない。
なんなら呪詛の言葉や悲しみが四六時中、心を占めている。
恥をしのんで白状すると僕は、家で奥さんが「おやすみ」も言わずにとっとと寝てしまうことがあると、ひどく傷ついて「なんでそういうことするの。俺は金稼ぎマシンじゃない!」なんて悲しみの中、憤りを訴えたこともありました(今、考えると結構やばいやつ。。。)
まぁ、それだけ精神的にギリギリだったんでしょう。
567禍でリモート勤務になり、安息を得たかに見えましたが突如、上司の呼び出しで休日にオンライン出勤に。
仕事のミスもあり、3時間以上もお説教を喰らう。
まぁ、これは明らかに行き過ぎな指導というかパワハラ。
幼い子供が「パパ、遊ぼうよ」と泣いている横で、私怨混じりに誹謗中傷を垂れるイカレクソ上司に「申し訳ありませんでした」と延々3時間以上も謝罪を強要されるという異常事態が発生し、僕はついに目が覚めました。
「こんな会社ずっといたらヤバい!俺は家族を守るぜ!!」と決意した僕は一念発起。ファイアーマン状態となってクソパワハラ上司に徹底抗戦した末、ブラック企業を無事脱出。
そして幸運にも再就職活動の1発目で受けた超ホワイト企業へ1発採用され、高待遇と共に転職できたのでした。
まさに捨てる神あれば拾う神あり。
「どうせ転職なんて」と思っていたことが嘘のような、あっけない転職劇でした。
そして時間的、精神的に余裕ができた僕は自分の人生と向き合ってあれこれ考えていた今年の2月2日、突如、下図の奇跡的心理状態を体験します。
NOTEで記事を書く習慣も
この一瞥体験時の圧倒的至高体験を記録として残さなければ!という謎の使命感で劇的に始まったのです。
そしてこのあと続くシンクロ頻発現象の謎を解くべく、僕は今まで胡散臭がって敬遠していた「スピリチュアル?」の世界に恐々と足を踏み入れたのでした。
当時、謎の体調不良にも見舞われ、家系的な大病ではと恐れを感じていた中、「ありがとう」を唱えたら末期癌が治ったという女性(名前失念)の本の存在を知って「やっぱりそういうことあるんだ!」と思い、体の痛みを取りたい一心で、どうせタダだしとこれを始めてみたのです。
ありがとう習慣開始後の変遷は、こんな感じ。
(1)他者側:ありがとう効果とか世間的には意味不明だろうな
(2)自己側:実際怪しい…でも本当に効果があったらいいな
(3)他者側:結構続けてるけど別に客観的変化ないなー
(4)自己側:うーむ、もうやめる?しばらく続けてみる?
(5)他者側:そもそも何がありがたいのだ?意味わからん
(6)自己側:でも…よく考えると色々ありがたいことあるな
(7)他者側:(棚に本が置いてある)
(8)自己側:この本もここに辿り着くまで、どれだけの人が関わったことだろう。それに今日この社会があるからこそ、ここにこの本がある。もし戦争だったらこの本もない。天変地異が起きてたらこの本も俺もここにはいなかった。なんなら宇宙と世界の歴史の中で俺も産まれてるんだなー。そう考えると、ただこの今がありがたい。
(9)他者側:(色々なものが目に入る)
(10)自己側:そうか、あれもありがたい、これもありがたい(ありがたい理由に気づくようになってくる)
(11)他者側:(あるとき仕事で失敗をしでかす)
(12)自己側:へこむなぁ。でも、そうは言ってもあれもありがたい。これもありがたい。とすると、この失敗もありがたい? そうだな、ここで失敗しておけば今後気を付けるからツイてるなぁ。
(14)他者側:(また何か失敗をしでかす)
(15)自己側:あーまたやっちゃったなぁ。でもこれで本当に大事な時に失敗せずに済むからツイてるなぁ。それに人生という視点で考えたら色々あって面白い。あのブラック会社での修羅場も学びの宝庫だった。あのラオウ君たちも、ことによれば生まれてくる前のソウルメイトで、お互い気づきを得るための戦争だったのかもしれない。人生無駄なことは何一つ無いなぁ。すべてがありがたい。この世はありがたいことしかなかったんだなぁ。
こんな風に主体的に世界と融和する「基礎代謝」ならぬ「基礎感謝」の高まりが、心に劇変をもたらしました。
以前のように、妻にみじめったらしく憤ることも以降ただの一度もありません。
それどころか毎日のように「ありがとう」「綺麗だね」「素敵だね」「毎日幸せだね〜」とイタリア人のように家族を賛美しています。
僕らは荒波の中で自分を見失い、自己不信感を互いに投射し、増幅し合っていただけだ。
自分は被害者と思っていたパワハラも、一概に自分が100%被害者とは言い切れず、「こいつは悪」と上司に不信感を持ち過ぎる僕の態度が不興を買い、実際にその現実を招いた面もあっただろうと我が身も顧みた。
僕らは正反対のように見えて互いの鏡だった。
あんなにも当時の自分には唯一の真実にしか思えなかったことが、必ずしもそうではなかったことに気づいてしまったのです。
そしたらこれまではただ冷たく無機質に感じていた世界に感謝が見出せるようになり、心にこびりついていた自己嫌悪も和らぎ、自分や世界とも限りなく和解、融和ができたのです。
以上が僕が実感した「ありがとう習慣」による意識の変化。
生きづらさがあり「自分にも必要かも」と思う方にはお勧めします。