『人間の教科書』 ありがとう習慣でどう意識が変わったか【驚きの結果】
小林正観さん曰く「ありがとう」を25000回言うと、とめどなく涙があふれ出てくるそうでして。そんな事前情報は僕もどこかで耳にしてたのですが。
はい、今日突然来ました。10年以上ぶりに僕は突如として嗚咽しました。
これが始めて1ヶ月ほど今通算7644回となった「ありがとう習慣」による効果なのか。
それともヌーソロジーの次元観察子を学んで持続の位置を獲得しようと日々、実践していたことによる意識変容の顕れなのか。
それとも単に僕自身の精神が何かおかしい具合になったのか。
自分でも今のところ、よく分かりません。
端的に言って、それは奇跡というよりは異常事態でした。
今も整理がついていませんが、記憶がある内に今日起きたことを記します。
(ちなみにヌーソロジーの用語も混ざってくるので何を言ってるのか分からない箇所があるかもしれませんが、ご了承ください)
知覚正面が視面(アンフラマンス)となる、あるいは「わたし」となる。
などと言われていることの意味がよく分かりませんでした。
でも先日の人参事件のあとに記事を読み返していたら、
「知覚視面=わたし」
って、つまり悟りのこと? ワンネスを眼前に発見することではないかと思い至ったのです。これがヌーソロジー解釈として正しいのか、僕の勘違いなのか、それは分かりません。
先日、サロンのライブで半田さんは言いました。
「持続空間、本当の自己、垂質の位置はψ5」だと。
それに「ψ5は自我が消える位置」だとも。
だから、そうそう簡単にそこに出ることは出来ないのだと。
なるほど、だとすると僕が持続を見た気になっていたのはψ3、垂子の方だったのかなーなどと思っていました。
さすがに自我が消えたなんて意識は、今まで感じたことがありませんので。
(去る2月2日に関しては、もしかしたらそれに近いことがあったのか? 今となってはよく分かりません。無かったかもしれないし、瞬間的にはあったんじゃないかという気もしますが、もう確かな記憶がない)
でも、あの「わたし=人参」現象は、もしかしたらψ5に迫れていたんじゃないか、とそんなふうにふと思ったんです。
今まで「知覚正面=わたし」ということの意味が、どうしても掴めませんでした。
だって普通に考えて意味わからないですよね。
幼児はウルトラマンと怪獣の人形で遊ぶとき、その世界になりきっている、
そんな例え話もありましたけど、うーんそりゃ幼児ならそういうこともあるかもしれないけど、俺もういい大人だしな。
この眼の前の「見え」が自分ねぇ。見えが自分、見えが自分、、、うーん、やっぱりぜんぜん分からない話だな、と。
モノと背景が一体になる、とか言われても「アーハーン?」って感じです。
でも待てよ、と。
「人参=わたし」
だとすると、目の前に見ている人参がわたしで、そのほか全部のものも自分なんだから。
いやいや、それが「モノと背景が一体」ってことなんじゃねーの?
「知覚正面=わたし」ってことなんじゃねーの?
と、ふとひらめいてしまったのです。
なるほど。単なる見えの認識の上っ面のことを言っていたわけではなかったのかと。
今まで、どうしても上っ面の見えのこととしてしか認識できていなかったけど、そうじゃない。
ψ5とは、おそらく潜在的だった純粋持続の位置が顕在化して「モノ=自分」の意識を持てる、そんな意識の位置のことではないのか?
つまりψ5とは、ワンネスが生の現場になるということじゃないのか?
そんな気付きの中、部屋の中をふと見たら、
「あれ、自分が…いる…????」
って一瞬、なぜかそう思ったんです。
室内に飾ってある、ぬいぐるみとか文庫とか、そういうものが、どう言葉で説明していいのか難しいのですが「自分」に思えてしまったんです。
それから、なぜか部屋が?視野が?狭くなったようにも感じました。
でも、そう、多分これは一瞬のことでした。
錯覚のような、そんな感じ。
で、気分転換も兼ねて、ちょっとマンションの共用廊下へ出てみることにしたんです。
いつもの町並みが広がっています。
この町並み全部が自分だなんて思えるわけねーべさ、と思いながら、しばらくぼーっと見てました。
でも、そしたら不意に
向こう側に立ってるマンションたちが、なぜだか自分の身体のように見えてきたんです。
それから電車がゴーッて走っていくと、それも自分の身体のように見えたんです。自分の手足の動きを見るときと同じような感じというか。
錯覚かもしれないけど、奇妙なことに、そう思えてしまったんです。
これは、なんだかおかしいなと思って、僕は共用通路の階段を登りました。
そのとき、思いました。
もし僕がこの階段の手摺から身を乗り出して落下したら、俺は死ぬ。
でも俺は俺だけど、その身体だけが俺というわけでもないから、今ここにあるこの意識は、むしろ空に広がっていくんじゃないか?
肉体の見えない桎梏(しっこく)から解放されて、この広い世界に意識が広がって無限に膨張していくんじゃないのかと。
そんなことを考えて雨空を見上げたら。
「私」の意識が一瞬、空の彼方まで広がったように見えて。
自分の意識が地球規模にまで、とはいいませんけど、その土地の神様レベルに大きく膨れ上がってしまったような、そんな錯覚を覚えていました。
語弊をおそれずに言うなら、自分が氏神さまの視点で世界を見てしまったような気がしたのです。
で、僕は少しパニックになりました。
なんなんだこれは、と。
ちょっと待て意識って一体なんなんだと?
もしかして、赤ん坊の頃からの二足方向を獲得するまでの無数の反復によって自分の意識の位置は、この身体に根付いているんだと、その反復ゆえに紐づけ思い込んでいただけで、本当は全然そうじゃねーんじゃねーのか?
意識の位置って実はもっと自由で、フレキシブルに紐付け替えられるものだったのかと??と。
妙な驚きとリアリティーをもって、そう感じてしまったんです。
で、僕は少し怖くなって、部屋の中に戻りました。
それから普通に仕事をしました。
いつもと何ら変わることなくおとなしく仕事をしてました。
それから夕方もよおして仕事部屋から出て。
家族と二言三言しょうもない雑談をしてからトイレに行きました。
そのトイレの中で、
「はー、さっきのは何だったんだ」と。
でも、ψ5っていうのは、自我が無くなる位置だと言ってたな。
自我が消えるってことは、自分が自分じゃなくなるってことだ。
そう、親から授けられた名前を持つ自分じゃなくて、自分の自己同一性が「素粒子」になってしまうというか、「自分=素粒子」だからこそ、「人参=自分」が成立するというか、「自分」という範囲に対する認識を改めるようなことなっちゃうんだなと。
そうじゃなかったら「知覚正面=わたし」なんて感覚が成立するわけがない。
そう思った瞬間、ほんの刹那、トイレの壁が自分に見えてしまったり。
そしたら家族が僕の世界から、するすると消えていってしまう気がして、僕はまたもや少し怖くなったんです。
それから僕は家族が夕飯を食べているダイニングをそそくさと抜けて仕事部屋へ戻りました。
それで、ふと思ったんです。
よく宇宙飛行士が宇宙から地球を見ると意識の変容を起こすという話があるけど、さっきのもそれに近いものがあったのかなと。
知覚視面を自分として見る、ということは、すなわち「自分」というモノの認識が変わって初めて可能になるんだろう。
それはもう自分であって自分ではない。
とすると、それはこの世に対するお別れではないかと。
生きながらの死、だ。
生きながら死後の世界に入っていくとは、もしやこのことだったのか?
そのとき、僕の脳裏に十年前に病で他界した父のことが思われました。
死に目に立ちあえなかった父の死。
父は、どんな死を迎えたのだろうとは人生の折々で思っていたのですが。
そうか。
死、とは自分が自分から切り離されていくことだ。
お前はお前ではなかったのだと世界から突きつけられてしまうこと。
私の意識が「名前を持った自分」を剥奪されてしまうこと。
肉体から強制的に追放されて空へ意識として放り出されてしまうこと。
その追放の中で徐々に気づいてしまうこと。
そう、自分とは、実は、あの肉体を持った自分ではなかったのだ!
自分とは、ただほんのひととき、あの肉体を宿り木としていた渡り鳥のような意識に過ぎなかった。
夢から醒めるように、そう、気付かされてしまうことこそが死だ。
それは、父が死の直後に見たビジョンのようにも思えました。
肉体を追放された意識は天空へと引きずられていく中で、どんどん剥ぎ取られていってしまうのではないでしょうか。
自分が自分であった証や、自己同一性を。
家族との絆や思い出、確かにあったはずの家族の中の自分の居場所をもぎとられていってしまうのです。
そして、その衝撃の中で自分の正体に否応なく気づかされてしまうのです。
なんということだ! 俺は俺ではなかったのかと!
仕事するPCの前で、そんな発見が僕の心の真ん中に突き刺さってきました。
そしたら「うそだ、うそだ、うそだ!!!」って。
あの隣の部屋でしょうもないテレビを見て笑っている子供と妻。
彼らとの出会いは、ほんの一瞬の光のような奇跡だったのかと。
そして俺が、この肉体を持った俺として生きて、
彼らと人間として出会え、笑いあえたことが何にも代えがたい幸福そのものではないかと。
俺がただ俺であったことが、こんなにも稀有で奇跡的なことだったのかと!!
自我をなくして次元上昇できるということに僕は、大した根拠もなくそれを英雄的なものとして捉えていたのです。
例えるなら孫悟空が超サイヤ人になる感じとか。
追い詰められたスーパーヒーローが変身に伴ってパワーアップするような、そんな歓迎すべき状態がそこにあるんだろうと無邪気に思っていたんです。
でも、おそらくそれは違います。
自我の消滅は肉体を持っていた自分、その自己同一性との永遠の離別です。
自分が自分であったこととの離別です。
自分という存在は、死とともに、どんどん膨張して希薄となって、自我が消えていってしまうのです。
これが幻のような、それでいて妙な実感を伴って心の真ん中で感じ取ってしまったとき思ったのです。自我と別れるなんて絶対いやだと。
そしたらもう涙があふれてきていて止まらなくなってしまったのです。
自我とは、こんなにも大切なものだったのかと。
自我とは、こんなにも稀有で愛すべきものだったのかと。
いつも自分を苦しめるように思えていた自我を持つこととは、かくも貴重だったのかと。
魂の大元というものがあるとしたら、そこへ戻っていくことは、とても悲しいことなのだと僕は痛感しました。
これは、まさに自己の崩壊です。
生まれ変わりや次元上昇だなんて、そんな生やさしいものではありません。
僕が知っていた現世という現場との永遠の別れであり、破壊的ですらあります。
僕は、もう家族を特別視して、えこひいきする自分ではなくなってしまい、おそらくもっと広い視野を持った神様のような意識へと還元されていってしまうのです。
おそらく氷の粒が海に放り込まれ、溶けて水に戻ってしまうかのように。
それは確かに永遠の平安の始まりかもしれません。
しかし、それはもう肉体を持って生きてきたときの人生とはまったく別のものです。
まさに今この人生は、そちら側の意識からしたら夢幻だったかのように見えてしまうことでしょう。
宇宙に帰ることは、もしや永遠の孤独ではないか?
そう思いました。
これから人間は2種類に分かれていくと言われています。
かたや半霊半人、かたや自我と欲望にまみれた従来どおりの人間。
もしかすると変換人型ゲシュタルトへ進化した人間の行く末には、宇宙意識として次なる世界の創造者になる道が拓けているのかもしれません。
今まではその道のほうが絶対に喜ばしいものであるかのように無邪気に思っていました。
しかし。
神になる、ということは絶対的な永遠の孤独の中を生きるということではないのかと。
そこには人間界のような享楽はきっとありません。
絶対的な安寧と世界を生み出していくための無限の奉仕があるだけです。
神は寂しかったのではないか、と僕は直感しました。
だから、このどうしようもない世界を作り出したのです。
どうしようもなく愚かで制限だらけで不自由で、だからこそ楽しみに満ち溢れたこの世界をきっと喜びに満ち溢れながら創造したのです。
この世界はおそらく神の絶対的な孤独の中から生まれた想像です。
だとすれば神はこの世界のどんな愚行も愛し尽くしているでしょう。
絶対的な孤独と寂しさの中で愛し尽くしていることでしょう。
神の自己放棄とは完全なる奉仕のことであり、神の自己犠牲のことでしょう。
決してそこはすべてが存在している楽園というわけではないのです。
だからこそ世界は永遠に交代化を起こし、循環し続けるのではないでしょうか。