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#福島県浜通り
フクシマからの報告 2019年春 山間部は高線量・海岸部は無人 中心部だけが新築ラッシュ まるで「復興ショウルーム」のよう
福島第一原発事故で放射能汚染を浴びた福島県の地域はいまどうなっているのだろう。そこに住んでいた人たちはいま、どこで、どうしているのだろう。街は村は、どうなったのだろう。現地を自分の目で見て、当事者たちに会って話を聞く。それを報告・記録していく。それが、私が2011年春からずっと続けている作業である。
今回も、2019年3月15日〜19日、福島県南相馬市・飯舘村・浪江町などを訪れた。8年間で現
フクシマからの報告 2019年春 原発から8キロ 6年間強制避難区域だった浪江町を再訪 解除2年で帰還した住民はわずか4% 町並みは今なお荒廃が続く
福島第一原発事故で強制避難の対象になった20キロラインの内側だった町村はいま、どうなっているのだろう。
今回は、その一例として、原発から4キロ〜30キロの地点に広がる「浪江町」の現状を報告する。
福島県浪江町は、原発立地自治体である双葉町の北隣。いわば「原発に一番近い市町村」のひとつである。町役場は原発から北に8キロの位置にある。6年もの間、強制避難区域に入り、無人になった。
(浪江町
フクシマからの報告 2019年春 原発事故から8年 カエルの産卵地も除染で破壊 消えゆく事故前の山村風景
毎年、サクラの咲く季節に福島県飯舘村に取材に行くと、必ず足を運ぶ場所がある。同村の南端・比曽(ひそ)という集落にある公民館である。ここはかつては小学校だった。廃校跡に公民館が作られた。その一角にこじんまりとした体育館とプールが残っていた。
このプール跡の水たまりに、冬眠から目覚めたカエルたちが産卵に戻ってきているかどうかを確かめる。それが私の毎春の習慣になった。
飯舘村は阿武隈山地の中、
フクシマからの報告 2019年春 8年間眠り続けた 原発事故被災地の高校 ついに休校 被災地に子供戻らず 消えゆく学び舎
前回のカエルの産卵プールに加えて、私がサクラ咲くシーズンに福島県飯舘村を訪ねると必ず寄る場所がある。
同村深谷にある相馬農業高校・飯舘校である(冒頭の写真=2019年4月27日に筆者撮影)。1949年の創立。これまでに約3400人の卒業生を送り出してきた。全校定員40人のこじんまりとした学校だった。
2011年3月11日から始まった福島第一原発事故による汚染で、国が全村民6,000人に強
<フクシマからの報告 2020年春> 津波と原発事故で消えてしまった JR富岡駅前の商店街を再訪 住民の95%が消えた町で ホテル経営に挑戦する地元民に会った
東日本大震災による津波と原発事故で、消えてしまった街がある。福島県富岡町にあるJR富岡駅(常磐線)一帯である。地名では「仏浜」という。前回の本欄で書いた「夜ノ森駅」の一つ南、東京寄りの駅である。
「浜」という地名の通り、海岸からわずか500メートル。ホームから海が見える。静かなときは波が砕ける音が聞こえる。電車は1時間に1〜2本。1898年開業。小さな木造駅舎が立つ、ひなびた駅だった。
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<フクシマからの報告>2020年春 福島第一原発に近づくと JR常磐線車両内で 線量計の警告音が鳴った その車両が東京に毎日6本やってくる
2020年3月14日、JR常磐線が全線復旧し、東京・上野駅と宮城県・仙台の間が直通で行き来できるようになった。そのニュースをご覧になった方は多いと思う。2011年3月の東日本大震災以来、9年ぶりに電車が全線を往復できるようになった。これが「復興」の象徴だとして、新聞テレビは大きく取り上げた。
福島第一原発事故を発生初日から取材している私にとって、これは大きな動きだった。
かつて現地で目撃