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フクシマからの報告 2022年春 除染解体で消えゆくふるさと 福島第一原発3.5キロの商店街で 11年を経てゆっくり姿を現した破壊 これは戦争と同じではないのか?
下の2枚の写真を見比べてほしい。同じ、福島県大熊町にあるJR常磐線・大野駅の跨線橋に立って撮影したものだ。13ヶ月の間に、駅前にあった4階建てのビジネスホテルがそっくり姿を消した。
同駅は、福島第一原発から西に約3.5キロ。事故前は、原発に往来する人が利用する最寄り駅だった。東日本大震災のあった2011年3月11日夜に全町民1万1505人に避難が命じられ、大熊町から人の姿が消えた。
原発直近の
コンビニカフェラテ逮捕事件 カルロス・ゴーン事件 50円と50億円の違いはあれど セーフティ・ネットなき日本の恐怖は同じ
冠省 朝日新聞社 岡純太郎記者殿。
貴方の仕事は、こんな被害金額50円の微罪で逮捕し身柄を拘束する警察の判断の当否を問うことであって、警察の発表をこんな風に型通りに記事にすることではないはずです。
100円で150円のカフェラテ注ぐ 窃盗容疑で男逮捕
福岡県那珂川市内のコンビニで、100円を支払って150円のカフェラテを注いだとして、県警は21日、同市内に住む自称会社員の男(62)を窃盗容
フクシマからの報告 2018年晩秋その3 原発内で働いていたからこそ思う 故郷はもう原発内部と同じ 渡辺さん親子の物語(下)
前回の記事に続いて、渡辺さん親子の話を書く。今回は父親の理明(まさあき)さん(48)である。
山形県に避難して間もなく8年。この間に、渡辺さんの健康は悪化した。壮健な少年野球チームの監督だったのに、円形脱毛症になり、大量の下血で救急搬送され、2年前からは人工透析に週3回通う身になった。取材で会うたびに、病気や故障が増えていった。顔色も悪くなった。避難直後の元気な姿を覚えている私には、痛々しい姿に
フクシマからの報告 2019年冬 全村避難解除から2年 自然のつくった氷の芸術は 除染による破壊から無事だった
2019年2月中旬、福島県飯舘村をふたたび訪れた。いつも通り、村の四季の自然をカメラに納めるためである。
厳冬の村は寒かった。最高気温が摂氏0度。日が陰るととマイナス5度以下に下がる。風が強いので、体感温度はもっと低い。「寒い」というより「痛い」という感じだ。刺すような冷気で足先や手指、耳がキリキリと痛い。
2011年3月11日から始まった福島第一原発事故で吹き出た放射性物質のプルーム(雲)で
フクシマからの報告〜2019年冬 佐野ハツノさんをしのぶ 原発事故から8年 事故当時を知る人々が 力尽き・病気になり・亡くなる現実
佐野ハツノさん(冒頭の写真)が亡くなった、とインターネットのニュースで知った。頭をいきなり殴られたような衝撃だった。しばらくパソコンの前で体を動かせなくなった。取り返しのつかない失敗をした。なぜもっと早く会いに行かなかったのだ。自分を責めた。2017年秋のことだ。
70歳。がんだったという。
ハツノさんは、福島県飯舘村で農業を営みながら民宿を開いていた。同村は、阿武隈山地の標高500メートルに
フクシマからの報告 2019年春 山間部は高線量・海岸部は無人 中心部だけが新築ラッシュ まるで「復興ショウルーム」のよう
福島第一原発事故で放射能汚染を浴びた福島県の地域はいまどうなっているのだろう。そこに住んでいた人たちはいま、どこで、どうしているのだろう。街は村は、どうなったのだろう。現地を自分の目で見て、当事者たちに会って話を聞く。それを報告・記録していく。それが、私が2011年春からずっと続けている作業である。
今回も、2019年3月15日〜19日、福島県南相馬市・飯舘村・浪江町などを訪れた。8年間で現
フクシマからの報告 2019年春 原発から8キロ 6年間強制避難区域だった浪江町を再訪 解除2年で帰還した住民はわずか4% 町並みは今なお荒廃が続く
福島第一原発事故で強制避難の対象になった20キロラインの内側だった町村はいま、どうなっているのだろう。
今回は、その一例として、原発から4キロ〜30キロの地点に広がる「浪江町」の現状を報告する。
福島県浪江町は、原発立地自治体である双葉町の北隣。いわば「原発に一番近い市町村」のひとつである。町役場は原発から北に8キロの位置にある。6年もの間、強制避難区域に入り、無人になった。
(浪江町
フクシマからの報告 2019年春 原発事故から8年 カエルの産卵地も除染で破壊 消えゆく事故前の山村風景
毎年、サクラの咲く季節に福島県飯舘村に取材に行くと、必ず足を運ぶ場所がある。同村の南端・比曽(ひそ)という集落にある公民館である。ここはかつては小学校だった。廃校跡に公民館が作られた。その一角にこじんまりとした体育館とプールが残っていた。
このプール跡の水たまりに、冬眠から目覚めたカエルたちが産卵に戻ってきているかどうかを確かめる。それが私の毎春の習慣になった。
飯舘村は阿武隈山地の中、
フクシマからの報告 2019年春 8年間眠り続けた 原発事故被災地の高校 ついに休校 被災地に子供戻らず 消えゆく学び舎
前回のカエルの産卵プールに加えて、私がサクラ咲くシーズンに福島県飯舘村を訪ねると必ず寄る場所がある。
同村深谷にある相馬農業高校・飯舘校である(冒頭の写真=2019年4月27日に筆者撮影)。1949年の創立。これまでに約3400人の卒業生を送り出してきた。全校定員40人のこじんまりとした学校だった。
2011年3月11日から始まった福島第一原発事故による汚染で、国が全村民6,000人に強
フクシマからの報告 2019年春 福島第一原発復旧工事で白血病になった作業員再訪 「俺は昔の炭鉱夫くらいにしか思われてないのか」
今回の「フクシマからの報告」の取材のために、福岡県北九州市を訪ねた。東京から出発して、福島県とは反対方向の西に飛行機で飛ぶ。
なぜフクシマとは離れた福岡県に行くかというと、北九州市に福島第一原発の復旧工事に参加したあと、白血病にかかった池田和也さん(44)=仮名=が住んでいるからだ。2017年3月にも一度、池田さんを訪ねて話を聞いた。「俺たち作業員は捨て駒なのか」という記事で本欄で公開した。私が
フクシマからの報告 2019年春 息子と娘の甲状腺にのう胞としこり 医師「経過観察ですね」 母「先生、意味がわかりません」
私は、2011年3月の福島第一原発事故直後から8年間、故郷から他県に脱出し、避難生活を送る人々を訪ね歩く取材を続けている。
山形県や埼玉県、群馬県、兵庫県など、その旅は全国に及んだ。会った人たちとは今も連絡を取り続けている。そして時折会いに行く。その生活や考えがどう変化したか、しなかったのか、歴史の記録に残したいと願っているからだ。
原発事故から8年が経つ。私が取材してきた人たちは、次の3パタ
フクシマからの報告 2019年春 原発事故難民3人を再訪 帰郷・失望 単身帰還 隣町避難 8年後の今も事故前の暮らしは戻らず
ここに一枚の写真がある。福島第一原発事故から約半年後の2011年9月5日、山形県米沢市で撮影したものだ。原発事故直後から撮りためてきた写真アーカイブを探してみたら、出てきた。
木幡(こはた)竜一さん(左)と但野(ただの)雄一さんが写っている。当時、二人は福島県南相馬市から避難して、米沢市の小さなビジネスホテルを避難所として割り当てられていた。そこを訪ねた時のものだ。
それに先立つ2011年