フクシマからの報告 2019年春 原発から8キロ 6年間強制避難区域だった浪江町を再訪 解除2年で帰還した住民はわずか4% 町並みは今なお荒廃が続く
福島第一原発事故で強制避難の対象になった20キロラインの内側だった町村はいま、どうなっているのだろう。
今回は、その一例として、原発から4キロ〜30キロの地点に広がる「浪江町」の現状を報告する。
福島県浪江町は、原発立地自治体である双葉町の北隣。いわば「原発に一番近い市町村」のひとつである。町役場は原発から北に8キロの位置にある。6年もの間、強制避難区域に入り、無人になった。
(浪江町ホームページより)
浪江町の現状は今なお過酷である。2017年3月末で強制避難が解除されてから2年が経つが、原発事故当時約2万1500人いた住民のうち、帰還したのはわずか4%、900人でしかない(2019年3月26日現在)。避難解除当時の町の調査に対して、半数にあたる49.5%の住民が「帰還しないと決めている」と答えている。
広大な山間部は今なお強制避難区域である(本欄『フクシマからの報告 2018年晩秋 高濃度の汚染地帯に入る 雑木と雑草にのみこまれていく集落』参照)。 幹線道路の通行以外は住民ですら立ち入りできない。海岸部は津波で破壊されて集落が消え、住民が戻る気配がない(行政が居住制限をかけている)。国道6号線沿いの限られた区域だけで、行政施設や商業施設が再開していて、かつての中心部は8年前に地震で破壊されたまま荒廃している。
前回本欄で報告した南相馬市は、浪江町の北隣である。浪江町ほか強制避難区域と違うのは、南相馬市は事故前の人口で約20%(行政区域でいう『小高区』)だけが強制避難の対象になり、残りは免れたことである。
つまり人口の大半は、自主避難をやめると住民が決意した時点で戻ることができた(この20キロという距離が正当かどうか、人工的な円で避難の種類を区別することの当否など政府の避難対策の是非は、本稿では深入りしない。この避難政策の無意味さについては拙著『原発難民』PHP新書をご一読願いたい)。だから強制避難区域に比較すると損害は軽くて済んだ。
しかし、20キロラインの内側は強制避難である。住民は「除染が済んだから戻ってよろしい」と政府が宣言するまで6年間自分の家に戻ることができなかった。
東京の官僚が地図に引いたたった一本の線の内外で、残酷なほどの明暗が分かれる。南相馬市北部がその外側なら、内側が浪江町である。
本欄で私は「原発被災地の中心分にはきまって『復興のショールーム』が新築される」と報告してきた。
結論を先に言ってしまえば、残念ながら浪江町もその例にもれない。「高線量の山間部→平野部の幹線道路・JR駅付近に復興のショールーム→海岸部は津波で破壊されコミュニティが消滅」というパターンは、太平洋岸沿いの原発事故被災地の風景としてどこも似ているのだ。
浪江町の現状を写真約100点と文で報告する。
(冒頭の写真は2011年3月11日の地震でCDやDVDが散乱したまま8年を経たレンタル店。以下、特記のない限り、写真は2019年3月16日に筆者が撮影)
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