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もらいっぱなしの愛情
暑い暑い、夏の午後。
父との面会の日。
夫と私は、
入院棟の4階に向かうため
エレベーターに乗っている。
かなり気が重い。
父が入院して3か月が経つ。
夫は、父が入院してから会うのは初めて。
私も母がいない面会は、初めてだ。
エレベーターは音もなく、
静かに上がってゆく。
白い箱の中に閉じ込められた気分だ。
果たして父は、
私が誰か分かるだろうか。
いつもは母と一緒だから、
私が誰か分かってるだけかもしれない。
私だけだったら、
もしかしたら分からないかも。
分かったとしても、今度は
夫のことを怖がらないだろうか。
嫌がらないだろうか。
父は突然何を言い出すか分からないし、
夫にそんな父の姿を見せるのもイヤだ。
電子音と共に
エレベーターは止まり、扉が開く。
見えたのは白い壁、白い廊下。
壁際に救急用のストレッチャーが
置いてあるほかは、何もない。
人の気配もしない。
ナースステーションでコールボタンを押す。
中年の女性が笑顔で出てきた。
ホッとする。
言われるがまま、ふたりの名前を記名した。
今日は土曜日。
本来なら面会できない日なのだが
予約をすれば、入れるシステムで
母が事前に予約しておいてくれた。
2つ前の項目には前回、
母と土曜日に来たときの私の名前がある。
母の書いた私の名前は
少し斜めに下がっている。
ゆっくりと息を吸う。それから
父のいる部屋へ入った。
チラリと父の目がこちらを見た。
起きている。
「お父さん、わかる?ワタシだよ」
そう大きな声で呼びかけた。
父は一瞬、キョトンとした顔をし、
しばらくして、「ああ」と笑った。
良かった。分かったみたいだ。
髭は綺麗に剃られ、髪も切ってもらったのか
さっぱりしている。
私の後ろに突っ立ったままの夫を
紹介したら、認識できたらしく、
「弟さんたちは元気にしてますか」
といきなり聞いた。
そこから何を話したのかは
あまり覚えていない。
我々の子ども、
父にとっての孫の近況を伝えたり、
父が可愛がっていた犬や猫も
家で元気にしてることを伝え。
父は朦朧とした感じで
「そうね、そうね」と繰り返すばかりだ。
![](https://assets.st-note.com/img/1725782567-H6OGBtbiCU5DylSoqh4jz0MP.jpg?width=1200)
ここに来る前。
今日こそは、父にたくさんのありがとうを
伝えようと決めていた。
照れくさくて面と向かって伝えるなんてこと、
全然できなかったけど。
今日こそは、今日こそは。
たくさんの感謝を、
たくさんの大好きを伝えたかった。
でも言葉がうまく出てこない。
どう伝えていいのかが分からない。
すると父がいきなり
「◎◎さん」と夫の名を呼んだ。
夫はびっくりしながらも、
慌ててベッドの近くに寄る。
「あのねえ、うちの娘なんですがねえ。
これが、全然気が利かないんですよ。
お客さんが来たとするでしょ?
で、お茶を出すこともできないわけ。
そういうところが心配でねえ、私は。
うまくやれるんだろうかってね。
ほんと、よろしくお願いしますねえ」
何度もドモりながら、つっかえながら
時折声を枯らしながら、父は夫に伝えた。
なんで?
なんで私の心配なんかしてるの。
それにもう結婚して
15年以上経つよ?新婚じゃないよ?
気がつけば涙が溢れていた。
「大丈夫、お父さん。うまくやってるよ」
泣いてるのがバレないに
マスクで鼻を覆いながら私が言うと、
父は
「そうか。そうね。
まあ、なんとかなるか」
とホッとしたように言う。
「そうだよ!なんとかしてる!」
そう言って、ふたりで笑った。
かなわない。
絶対、親にはかなわない。
ただただ、もらいっぱなしの愛情。
それを返そうなんて100年早い。
私ができることは、ただひとつ。
これから生きる新しい世代に
つなげていくことだけだ。
看護師さんがやってきて
「そろそろ…」と苦笑いしながら言った。
面会時間の終了だ。
「じゃあ、また来るね」と言い、手を振る。
父も力なく手を振り、返してくれた。
私たちは再び、箱エレベーターに乗る。
そのまま灼熱の駐車場へ向かい、
夫が運転する車に乗った。
良く晴れた夏の日。
青空の下をゆっくり走りながら、
母が待つ実家に向かう。
家に着くまで。
夫は一言も言葉を発しなかった。
私も何もしゃべらなかった。
それがとてもありがたかった。