愛おしいからこそ、
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どうも、本や学びやmerkki(メルッキ)店主の、じーもです。
最近は寒くなって来て、お店の前の大きな扉も閉めっぱなしにすることが増えてきました。みなさん、体調は大丈夫ですか?
ちなみにわたくしは、寒暖差のせいで鼻水が…(笑)
本を愛でる
突然ですがみなさん、本は好きですか?
わたしは、けっこう好きです。でも、読書が好き、だから本が好き。というより、本という物体が好き、という感じかもしれません。
本屋をしているわけですから、必然的に本を眺めたり触れたりする、という行為が多くなります。さらに、わたしの場合は選書(仕入れ)もすべて一人でするわけなので、より店内にある本への愛着がわくわけです。
例えば植物を家で育てること、もしくは、学校で育てていた時のことを思い出してください(もしくは想像してください)。
植物たちは、そこから一歩も動くことはできません。
雨が降らなければ(部屋の中ならとくに)、水をやらなければすぐに枯れてしまいます。
なので、水をやるときには植物を見つめるわけです。
そのときに(人にもよりますが)、葉っぱの様子や土の様子、花やつぼみ、様々な部分を見ることになります。
そうすると、一歩も動けないはずの植物は様々な様子を見せてくれます。
葉っぱの色が変わったり、茎がのびてきたり。花がしぼんだり、つぼみから花開いたり。決して早くはないけれど、確かに動いている(生きている)のがわかるようになってきます。
もちろん逆に、自分に余裕がなければ水やりを忘れたり、考えなしに水をたくさん上げたり。そうすることでみるみるうちに元気をなくします。
そんな日々を過ごすうちに、植物たちを愛でるようになります。聞こえないはずの声を、動かないはずの表情を、感じ取ろうとします。
本も同じです。
本はそれこそ、植物よりも動きません。
水も必要ありません。
それでも、湿気によって紙の具合が変わります。誰かが触って帯の位置が変われば、そのままの姿で居続けます。(もちろん気軽に触れてもらえることは嬉しいことです。)
果ては、その佇まいや雰囲気までも愛おしく感じ始めます。
そうなると前述した植物たちを愛でることと何ら変わりはありません。
私自身、二児の父でもありますが、子どもの動きは早い。
感情も行動も、言葉も。
身体的な成長も、大きな目で見れば十分に早い。
そんな風な人間社会に生きていては、言葉や動きがなければそのモノの意志を感じ取りにくくなってしまいます。
だから、人間が病気や事故で動けなくなってしまったら、とたんに愛でることが難しくなる。でも実は、単に汲み取る側に、感じ取る能力が磨き切れていないだけなのかもしれません。
本にとっての幸せ
じゃあ、愛でられている側からすればどうなんでしょうか?
ここでもわかりやすいのは人間でしょう。
人間は、当たり前(なのに忘れがち)ですが、ひとりひとり意識が別です。つまり、考えていることも、そもそも見えている世界すらも、別、です。
ということは、愛でている側と愛でられている側の人間は、求める理想も異なるわけです。でも厄介なのが、人間関係の維持。社会の仕組み。子どもからすれば親は絶対的な対象でしょうし、学校や会社での先生や上司も似たところがあるでしょう。
中身(考えていること)は別でも、表面上は合わせることが必要になってきてしまうし、もっというと、合わせることができてしまう。(できなくて閉ざしてしまったり体調を崩したりしてしまうこともあると思います。)
では植物はどうでしょう?
植物は、明確に自分勝手(人間目線な言い方)。というより、はっきりと自身の姿で自分の目指している方向に導いてくれます。いえ、ただひたすらに、生きています。
つまり、愛でている側(人間)は愛でられている側(植物)の思うがまま踊らされるわけです(あんたの言うことにゃかなわねぇ…的な?)。
では、本。
本は…。そう、愛でている側だけで完結してしまう。
本(愛でられている側)が何を望んでいて、どうなりたいかなんて関係ない。そもそも本は、愛でる側(出版社や著者)から生まれたような存在です。それでいて、何も言わない。動かない。
でも、何か語り掛けられる気がする。
実は、本(愛でられている側)というモノを通して、自分(愛でている側)の気持ちや考えが反映されてしまいます。
例えば、
ここにいる本たちを見て、どう思うでしょう?
本たちがどう考えていると思うでしょう?
それは、そのときの見る側(人)の気分や環境、体調によって左右されます。どんな風にも変わってしまう。
でも。そもそも。
本って、読まれるためにある、、んだよね?
愛おしいからこそ
本は読まれるためにある。
そう考えると、愛おしく見えていた本たちの姿がまるで違う姿に見えてしまうことがあります。
なんだか、切ない。申し訳ない。寂しい姿に見えてしまう。
動けないからこそ、本屋であるわたしが、訪れてくれるひとりひとりに向けて提案すること。そして、誰かの元へ旅立ち、新たに愛でてもらうこと。
それができないがゆえに、とても。とても申し訳ない。
「どうしてここに連れてきたの?」
そんな声も、聞こえてきてしまいそうになってしまいます。
誰かに届いてほしい。
そんな想いをもって本を選びます。
きっと、そんな想いでつくられた本たちばかりです。
そんな本たちに、一体何ができるのでしょう。
何ができているのでしょう。
自問自答を繰り返してしまう、そんな日々です。
努力というか告知というか
つくづく豆腐メンタルだな、と感じますが。。
来てもらえるための努力と言いますか、、ようやく重い腰を上げたと言いますか。。年末までにいくつか小さいながらイベント(と言ってもいいか申し訳なく思うくらいの規模)をしようと思います。
◎「学ぶ」をおもしろがる会
・12/15(日)18:00〜
→読書会&朗読会 詳しくはこちら
・12/21(土)18:00〜
→百文字小説や俳句などの創作会?
・12/27(金)19:00〜
→哲学カフェっぽいもの?
参加費:500円(各回)
時間帯としては、「学びやmerkki」の時間帯となります。
自分にとってもまだまだ、こういった企画はハードルになってしまっているので、回数を重ねることで、そのハードルを少しでも下げようかな、とたくらんでいるわけです。
最後に
いつも記事を書く時には、タイトル→見出し→本文、の順で書くことが多いのですが、今日は見出しに対して本文があっているか怪しいですね。
本のことを書きたいとも思ったのですが、意外と広く話がそれてしまった気がします。(だから対面でも話が長くなりがちなのかもしれません…)
それでも、ここまでよんでくださったみなさんには感謝です。いつもありがとうございます。よければまた、お会いしましょう。では。