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【エッセイ】一周回ったお気楽仏教 ~作家 五木寛之との出会い~

どうも昔から仏教に惹かれる。自分でもよく分からないが、仏教のあまり宗教的でないところに、どうやら魅力を感じているのだ。

なんとなーく、これからの自分と意気投合しそうな雰囲気のある仏教。

その馴れ初めについて書いてみたいと思う。

すべては五木寛之からはじまった

曾祖母は毎日般若心経を唱えていたが、私と仏教には葬式や法事以外には接点はほぼなかった。京都の国宝級の仏像を見て、「あぁ、なんかいいな」と思う程度だ。

そんな私がなんとなくも「あれ、仏教ってけっこういいじゃん、すごいじゃん」と思うようになったのは、五木寛之との出会いがきっかけだ。

「海を見ていたジョニー」という短編集がある。

公募用短編作りの参考になるような小説を探していて、たまたま手に取った。黒人兵ジョニーとジャズバーで演奏するという表題作を目の前にして、きっと読んだ方がいい、と直感が言った。たぶん、「黒人兵ジョニー」という単語から大江健三郎の「飼育」が連想されたのだと思う。当時、大江健三郎こそ最高の小説家だ、と思い込んでいたから、この本を無意識的に手に取ったのもうなづける。

表題作は、潮のにおいが漂ってくるような濃密な短編で満足した。また、「私刑の夏」という収録作品も、息のむ筆致で、読み応え抜群だった。いやはや、いつかはこんな濃い小説が書けるようになりたいものだなぁ、としみじみしつつ、それは並大抵な願いではないだろうということは、よくわかっていた。この五木寛之という作家、タダモノじゃない(当たり前だ)。何者なんだ?

調べてみると早稲田のロシア文学から始まり、壮年期は「親鸞」(浄土真宗ですね)という超大作を書き上げたらしい。ほうほう、なんだか好感が持てる。だいたいロシア文学専攻なんて暗くて”ホンモノの文学者の匂い”がするじゃない。決まり。もう一冊この人の本を読もう。過去作品を見ていく。さて、何にするかな。あれ、これ聞いたことあるぞ。

そこで手にしたのが、「大河の一滴」というエッセイだった。

軽い気持ちで読み始めたが、愕然とした。
あぁ、これ、一生手元に置いておくやつだ・・・
最初の50ページほどを読んでそう確信した。気が付くとアンダーラインを引きまくっていた。

この瞬間が私と仏教とのちゃんとした出会い、ということになる。そう、この本の謳い文句は「ブッダも親鸞も、究極のマイナス思考から出発したのだ」であるし、五木寛之もゴリゴリの仏教ガチ勢だったのだ。

基本的に、五木寛之は、

人生に意味なんてないよ

と言っている。カラッと陽気にそう言っている。
また、

人生なんて辛いもんだよ、そんなもんだよ

とも言っている。
これが、受け入れられるかどうか(というか腑に落ちるかどうか)、で仏教との相性が決まるんだろうなぁ、と思う。ここで「そんなことない!人生には尊い意味がある!」と抵抗できてしまう人は、きっととても強い人で、タフでポジティブな人なんだと思う。仏教っていうのは、たぶん徹底して現実的で、ある意味悲観的な思想だから、そういうタイプの人は仏教となじまないんだろうな。

でも、自分はこの考え方に自然に賛同した。「まぁ、そりゃそうだよね」という感じ。「大河の一滴」の中で心打たれた文章がある。ちょっと長いけど、引用させてほしい。

 本当のプラス思考とは、絶望の底の底で光を見た人間の全身での驚きである。
 そしてそこへ達するには、マイナス思考の極限まで降りていくことしか出発点はない。私たちはいまたしかに地獄に生きている。しかし私たちは死んで地獄に墜ちるのではない。人はすべて地獄に生まれてくるのである。鳥は歌い花は咲く夢のパラダイスに、鳴り物入りで祝福されて誕生するのではない。
 しかし、その地獄の中で、私たちは、ときとして思いがけない小さな歓びや、友情や、見知らぬ人の善意や、奇蹟のような愛に出会うことがある。勇気が体にあふれ、希望や夢に世界が輝いてみえるときもある。人として生まれてよかった、と心から感謝するような瞬間さえある。皆とともに笑いころげるときもある。
 その一瞬を極楽というのだ。極楽はあの世にあるのでもなく、天国や西方浄土にあるのでもない。この世の地獄のただなかにこそあるのだ。極楽とは、地獄というこの世の闇のなかにキラキラと光りながら漂う小さな泡のようなものなのかもしれない。人が死んだのちに往く最後の場所では決してない。「地獄は一定」そう覚悟してしまえば、思いがけない明るい気持ちが生まれてくるときもあるはずだ。
※「一定(いちじょう)」とは、いま、たしかにここにある現実、の意味。

「大河の一滴」より

この思想、人生哲学を仏教というのであれば、私はそれに与したい、とそう思ったのを覚えている。地獄は一定。一周回って、なんて気楽で陽気な考え方なんだろうか。

人生の意味?ないよ。別になくていいじゃん。
病気、老い、別れ、この世は地獄?まぁそれでもいいじゃん。仕方ないじゃん。

諦めるっていうのは、この世(の真理)を「あきらむ」こと。
要は明らかにする、ということ。現実をありのままに見る、ということ。

死なない人はいないし、老いない人はいないし、病気しない人もいないし。人生の意味なんて証明できないし、どうせ死んだらいつか忘れられるし。極端に言えば、人類も地球もいつか消えてなくなって、太陽も死期を迎えて、その痕跡すら吹き飛ぶし。

人生、生きて死ぬだけなんだから、ちょっといいことあったらラッキー!と思って、気楽にやりましょーや。

・・・どう?

正確かどうかはわからないけれど、この文章には、仏教のエキスがふんだんに入っている。

だって、ものすごい偉いお坊さんも同じこと言っている。

人生はただのゲームである、と。

ゲーセンみたいに、プレイ時間が切れたら最後はパーなんだから、気楽にやれよって。気楽にニコニコできるのは、「最後に意味がない場合だけ」なんだって。全部に意味がある、なんて思ったら全部真剣に鬼の形相でやらないといけないでしょ?

安心しなさい。全部意味なんてないんだから。ニコニコして生きなさいよ。


ということをここでも言っているのだ。

1%たりとも共感を求めているわけでないが、この諦めこそ、ここぞという時に頼りになる知恵なのではないか。現状、そんな気がしている。私の仏教に対する好感・興味はこのようにして芽生えていった。

そして、今。

ちょっと本格的に仏教を学びたいと思い始めている。しかしそれは、仏教を宗教として捉え、信心深くなろうとしているわけではなく、仏教を1つの哲学体系として学んでみたいという欲求である。

幸いなことに、仏教を哲学・思想として取り扱っている研究は多い。西洋哲学との対比や東洋哲学の中でのポジションなど、知りたいことがドシドシ出てきている。

私の人生における(意味のない)当面の暇つぶしは、仏教哲学との触れあい、ということになりそうだ。

あー、興味ある本を読めるのがたまらない。嬉しい。一定(いちじょう)の地獄に差し込む光は数多く、また、美しい。


※アマゾンでポチった本。また、読書感想を書きます。


全12巻ある模様・・・


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