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【エッセイ】自己啓発本とパノプティコン
酒を飲む時は、二日酔いに注意する、薬を飲む時は、副作用に注意する。さて、自己啓発書を読むときにも同じような注意が必要ではないか。
最初に断っておくが、私は基本的に自己啓発書が好きだ。読めば、モチベーションが上がるし、思考がクリアになる、精神的に安定することもある。
だが、それらを鵜呑みにすること、過剰摂取することには、危険も伴うのではないか、そんな話をしてみたい。
年間読み切れないほどの自己啓発書が発行されるが、伝えているメッセージは極めてシンプルで、似通っていることが多い。すなわち、
①今すぐに具体的な行動を起こせ
②それを継続せよ
③行動した人はえらい!
だ。
これらに著者の経験が肉付けされ、「私のようになりたいなら」という暗黙の前置きとともに、メモ書きやら筋トレやら早起きやら勉強やら断捨離やら「やった方がいいに決まっていること」の具体的な行動の継続が推奨される。そして、行動を起こす者、続ける者、つまり夢に向かって努力している者こそ素晴らしく、彼らこそが人生を謳歌し、成功に至るのだ、という讃美歌が歌われる。また、多くの場合、これらの本の中で、他者は、夢を刈り取ろうとする「邪魔者」か、あるいは自堕落な「愚者」として描かれる。
ちょっと悪意ある書き方になっちゃったが、典型的な自己啓発書は、このパターンが主流だと思う。人は、苦しんでいるとき、落ちているときには、あれこれ考えるよりも行動が必要だから、これはこれで非常に有用なのだ。でも、と一旦立ち止まってみたい。
イギリスの哲学者ベンサムは、かつてパノプティコンという監獄を設計した。囚人の入る独房が並んだドーナツ状の建物があり、その中央に監視塔が立っている。塔からは周囲360°すべての独房の様子が監視できる。一方、囚人側からは監視塔の様子は分からない。当時としては画期的な設計だったようだ。これによって何が起こったか。囚人は常に監視されている、という感覚を抱くようになり、ついには自分で自分を自己監視するようになった(規律された)のだ。”見られていなければ、何をしてもいい”という奔放な時代は、こうして前時代的なものとなった。
この監獄をミシェル・フーコーは、「一般化可能な作用モデル」として捉えた。つまり、人は誰でも、パノプティコンで監視された囚人に類する経験をすることで、監視を内面化する(勝手に自分で自分を規律化する)、と言ったのだ。例えば、学校、軍隊、家族など、思い当たる場所は多くある。教師がいないところで悪さをしたら、誰かにチクられてこっぴどく怒られた、とか、外出するたびにどこで何をしていたか親に報告を求められる、とかである。
この監視の内面化は、簡単にいうと、しつけのようなものだ。誰に見られていなくても悪さをしない心がけをもつ人間を作る作用のことである。フーコーはこれを「自立訓練」と呼び、現代の権力構造の成立と結び付けた。
ここから少しマクロな話になる。詳しく説明はしないが、権力構造への応用のため、ここから先、監視者(能動・主体)を権力者として、囚人(受動・客体)を民衆に見立てる。フーコーによれば、監視者=権力者は、実に巧妙なやり方で、もはや監視されているという感覚さえ失わせて、囚人=民衆の自律訓練を成功させた、という。例えば、日本でいう道徳心などはその典型かもしれない。我々は、誰かに罰せられるから道徳心を発揮するのではない。自らの意思として、善の行い(自らの自尊心を高めるもの)として、それを行う。目上の者を敬い、他者を尊重し、暴力を放棄する。これらの道徳的行いが、権力者にとって最も都合がよいことには、思いもよらない。まして、道徳の起こりやその流行が、権力者の恣意的なものとは想像しない…
ここからフーコーは、現代の権力構造とは、上(権力者)が下(民衆)を押さえつけているだけの構造ではなく、むしろ下(民衆)が上(権力者)を支える力も大きいと指摘した。実に鋭い考察と思う。
少しまとめよう。
①常に監視されているという感覚は、パノプティコンにおける物理的な環境を超え、一般的心理モデルとして作用しはじめた。
②人々は様々なところ(学校、家、病院、軍隊など)で監視を内面化させ、自らを規律してきた。
③近代化につれて、権力者はこの自己規律を非常に巧妙に進化させ、今や、監視されているという感覚さえ感じさせずに、言い換えれば、自らの意思として人々が常に自己監視を行うように社会を設計している。
④そして、それは権力構造を下から支える力として働いている。
話を自己啓発に戻す。私は、ここで、自己啓発書を書く人間を権力者だと想定してみたい。彼らは、基本的には資本主義社会の”勝ち組”であり、持つ側の人間である。また、インフルエンサーと呼ばれて、実際に甚大な影響力を持つ者も多い。SNSの横行するこの時代において、影響力こそ最も強い力だという考えも、もはや一般的に受け入れられているだろう。
もう何が言いたいかおわかりだと思う。彼らの書く自己啓発書こそ巧妙に我々の「自立訓練」を実行していないだろうか。
我々は、人生を切り開くため具体的な努力をしているとき、知らず知らずのうちに、自らを監視している。努力を怠らないように、努力をやめないように、努力を疑わないように、努力を神聖化するように。
資本主義的な成功を強く望み、努力と成功を同一線上のものと捉えたとき、努力、あるいは努力をしている自分を盲目的に肯定してしまう。こうして、努力至上主義者が生まれてはいないだろうか。努力する者だけが偉い、努力する者だけに価値がある、努力を続けた者だけが成功する、努力をしない者は劣っている、落ちぶれている者は全て努力の足りない根性なしだ、と。
こういうことを平気で、本気で言う人間を何人も知っているが、正直、まともだとは思わない。はっきり言って、嫌悪感の対象でしかない。
さて、また少しマクロに引いて考えると、この構図は、先に述べた権力構造に酷似している。読者が努力に酔えば酔うほど、努力を崇拝すればするほど、そして、努力と成功を同一視すればするほど、成功者=権力者=インフルエンサーは、その存在感と影響力を増し、ますます肥え太る構造が見えるだろう。
私は、この構造に加担するのはゴメンだと考えている。ひろさちや氏(「狂いのすすめ」は必読書だ)を引き合いに出すまでもなく、世の中には様々な境遇の人間がいて、様々な運命や宿命を背負っている。病気、障害、天災、犯罪、事故、それらに巻き込まれたとき、人間はあまりに無力だ。努力至上主義者は、これらの事象を念頭に置かない。まして、努力をしようとしてもできない環境にある人間を想像し、共感し、心を寄せようとはしない。
もちろん、努力が素晴らしい行動であることは間違いない。自分を高める意識は大切だし、時に生きる糧となる。しかし、決してそれが全てではない。私たちは、自分の力では抗いようのない濁流のなかでもがく、ちっぽけな存在である。努力だけで全てを片付けられるような単純な世界に生を受けてはいない。
ということで、私は、自己啓発書を読むとき、ちょっとだけこの世界の複雑さを思い出すことにしている。本の中では、この世界は単純で、希望にあふれ、これさえやれば何かが変わる、と思わせてくれる。けれど、それはリアルじゃない。それは、あくまで、状況を打破するきっかけである。
努力至上主義が行き着く先は、差別と偏狭かもしれない。もちろん自己啓発書のすべてがそれに加担しているとは思わないが、頭の隅にその懸念を持っていた方がバランスが良いのではないかと思う。
それは自分の人間らしさや、世界の複雑さを忘れないための私のちょっとした防禦策である。