「生きてるだけで偉い」なんて誰が言ったの?
生きてるだけで偉いなら、偉くない人はいない
そりゃそうなります。
つまり、偉いとか偉くないとか、価値があるとかないとかいう相対的な尺度、あるいは「誰にとって?」が抜け落ちると意味を失う尺度は、みんなが同じになった時点で無に帰します。
(それでも絶対的な基準が欲しければ、生きてる人より死んで全身ドナーになる人の方がずっと偉いです。)
ある人にとっていい人も、他の誰かにとっては必ず嫌な人です。
自分の嫌いな人間が他人にもてはやされたり、あるいはその逆っていくらでも経験してますよね?
それとおんなじで、「偉い/偉くない」って、かならず「誰にとって?」が必要な評価の尺度なんです。
一言でいえば、誰かを少しでも幸せにできたら「その人にとっては」偉いわけで、(過不足なく)威張っていいんです。
アフリカの難民支援をし、公衆衛生の問題から何千人の子供の命を救った人は僕にとって偉くもなんともないです。
能力や行動力に対してすごいとは思うけど、僕はその人の存在で何も恩恵を得てないからです。
そういうひと、僕にとっては藤井聡太との扱いと同じです。
あの年齢で前代未聞の記録を作った能力はすごいと思いますが、別にリスペクトしてはいません。かっこいいとも思いません。
別に悪意があるわけではなく、将棋に特に興味がないからです。
「偉いかどうか」なんてしょせんそんなものです。
何が言いたいかというと、
たとえ世間一般の尺度でものすごいことを成し遂げても、関係する人以外にはどうでもいいことです。
じゃあ誰が偉いのか?
決まってます。
誰かを幸せにする人です。
多くの数に少しずつ恩恵を与えるのでもいいし、自分の周りの人らだけにしぼって助けてあげるのでもいいです。
そうしたらその人たちにとってだけあなたは「偉い人」になれます。
つまり尊敬され、信頼されるということです。
尊敬と信頼、そして愛情。
生きてるだけで偉いんだと思い込みたい人は、これらを得ていないからです。
とりあえず動きましょう。
自分の幸せにしたい人を幸せにして、初めて人は社会に「居場所」が得られます。
「居場所」がなくても生命維持はできます。
が、健康維持は難しいと思います。
「職場ではけっこう熱心」程度でも、周りの人間は意外と幸せになってくれますよ。
「自己肯定感」のうさん臭さ
この言葉に関して落ち着いて考えてほしいのは、「そんなものなくても死にはしない」ことです。
心のどこかで自分をさいなむ欠落感や孤独感にそれっぽい名前を(おそらく広告会社が)あてて、利用されているように感じます。
孤独や焦りを埋めるためには、誰かのために動けばいいんです。
誰かにお礼を言われるようなことをすればいいんです。
それには別に特別な能力は要りません。
正直言って、僕は発達障害とうつ状態で人生の結構な時間を無駄にしてきた経緯があるので、ほぼ健常者になった今でもそういうものの欠落を胸の隅に感じることがあります。
こういった治療情報の発信行為もそういった動機が混ざっていると思います。
そんなわけで、再三の呼びかけになりますが、当事者の方々、知恵を持ち寄りみんなで何かデカいことやりませんか?
あらためて宣伝ですが、僕は今noteとⅩで以下のようなことをやっております。
生きてるだけじゃ偉くなれないし、人ひとりでできるコトには限界があるので、みんなで偉くなりたいですね。
ご連絡をお待ちしております。
頂いたお金は新しい治療法の実験費用として記事で還元させていただいております。 昔の自分のようにお金がない人が多いと思いますので、無理はしなくて結構です。