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適応障害の私がたどり着いた『毎日手書きで日記を書く』という適応場所について


 とにかく成功体験がほしい。

 私は自分のことを、なかなか許したり、認めてあげたり、褒めてあげたりすることができない。例えば懸命に時間を費やし、仕事をやり遂げたとしても「私じゃなくてもできたことだし」と気持ちに蓋をしてしまう。何かひとつ、できたことがあっても「こんなことで喜んでいる私って一体…」と、いつも心をくるくる、ポスターを丸めるように小さくしてしまう。


「自信がある」と思えるものが、皆にはあるのだろうか。

 勉強、スポーツ、楽器、手芸、コミュニケーション能力、語学力、健康、自己理解、などなどまだまだたくさんありそうだ。別に「この世界で一番できる!」とまでは言わずとも、まあ、自分はこれが得意だ、自信があると胸を張っている人を見ると、私からは遠い人のように映ってしまう。

 器用貧乏という言葉がある。

 私は多分「"不"器用貧乏」だ。

 自分で言っていて哀しくなってくる。ちょうど全部、なだらかにできないのだ。かといって、どれも"完全にできないわけではない"。

 勉強はそこそこできた。それは「ここがテスト範囲だからな」と先生に言われたところをなぞっていただけに過ぎない。できたのではなく、覚えたものを書くという、指示された動作をやっていただけだ。ここまで読んでいて気づいたかもしれないが、私はつべこべ言って、自分を下げようといつも必死になってしまう。

 出る杭は打たれるみたいに、嬉しかったり、楽しかったり、達成感を得たりすると、誰かに酷く上から叩かれてしまうような感覚がどうしても抜けない。幼少期から社会人にかけて、どの環境に身を置いても、否定されることの方が多かった。それが染み込んでしまったせいか、誰かの優しさすら曲解し「自分なんかに気を遣わせて申し訳ない」と思ってしまうのだ。こう、なんというか、手に負えない。


 そんな私は唯一、書くことだけは今まで続いてきた。素晴らしい小説やエッセイをしたためられるわけではないが、とにかく"自分の気持ちを書き出す"という行為に、深い発見と、わずかな快楽があった。

 大抵、綺麗な言葉ではない。何度も掃除に使った雑巾を絞って出てきた、濁った水のように他者には見えるかもしれない。ただ私には「源泉」に見え、感じた。

 今まで私はパソコンやスマホに向かって文字を打ち続けていた。とても現代的だろう。昨今AIやSNSが発達してきたのもあり「文章を書く」と聞けば、人はまさか紙に書いているとはおもうまい。誰かに読んでもらうにしても、自分で読み返すにしても、全てデジタルの方が都合がいい。ペンや消しゴムなど用意する必要もなく、ボタンひとつで一文字だって、何千字だって一瞬で消したり、貼り付けたりできてしまうのだ。


 そんな動きの気分を変えたかった。

 多分きっかけはそれくらいだったようにおもう。

 2025年が始まり、私は何か新しいことを始めようとおもい、「日記帳」の存在が頭に浮かぶ。「一冊」がほしいと常々おもっていた。自分のSNSアカウントに文字が溜まっていくのも心地よいが、自分の言葉、感情を手に取り、それがなんと実体として持ち運べるとなると、自然と私の心は踊った。スケジュールを書きこめるかどうかはあまり重視せず、とにかく自分の気持ちを広く書きなぐってやりたいとおもったのだ。


 そこで出会ったのが、『hibino』という手帳だ。

私の愛用hibino

『hibino』は、手帳であり、日記であり、ノートです。日々のすべてを受け止めて「あなたの1日」を綴ります。

ミドリオンラインストアより引用


 なんといっても私が注目したのは「1日2ページ」のデイリーページがあるところだ。ここが本当にたまらない。いい意味でだ。



 これを見て高揚した私は、やはりどうしようもなく、書くことが好きなのかもしれない。この後に及んでも認めたくない気持ちもあるが、それを飛び越えてくるくらい、私は書くのが"合っている"のだとおもう。

 加えて、私は人が書いた字がとても好きだ。綺麗に整っているかどうかなんて重要視していない。その人がどんな気持ちで書いて、どんな心の中にいて、どんな時間に書いて、どんなふうにして、と妄想が止まらなくなってしまう。これはとてもたのしくて豊かだ。


 だからこそ、私は自分の書いた字を自分で見るのも好きだし、誰かに見てもらいたいとおもった。

 パソコンやスマホも字体は変えられるかもしれないが、手書きに勝るフォント、個性を私は知らない。自分で書いた日記帳をペラペラと時折振り返り、きっと恍惚な表情を私はしているに違いない。

 私は2025年1月1日から、毎日私のXで自分の書いた日記を写真で撮り、投稿している。「私はこんな人間だよ」とあれこれ説明しなくても、私が日常のことを綴り続ければ、読んでくれる人は読んでくれるし、興味がなければ開くこともないだろう。

「今日どうだった?」「最近どう?」と聞かれてもうまくその場で応えられない。人との関わり方が、どうにも上手にできない私にとって、"先出しで自分を映せる"というのは大きな利点だった。


 そして何も当然、私は自分が大好きな人間で、自分に自信があるわけではない。その気持ちを背景に、日記を更新してるわけではないと一応おもっている。なんだか矛盾しているだろうか。といっても、表現する形が、"手書きの日記"だっただけで、様々な人が「文字」「感情」をSNSで発表し続けているのだから、その全ての人が自分が大好きで、自信があるとは言えないだろう。なんとか矛盾を突破できているだろうか。

 ただ「理解されたい」という欲求が、私は強いのかもしれない。そして「共感してほしい」という願いがたくさん文字となって表れていく。なんとか自分を大切に、抱擁するすべを暗闇の中で探している。感情の丁寧な整理は後にして、私は誰かとつながりたくてもがいているのかもしれない。そして最終的には、"作家になる"という夢を追いかける過程で、自分の文章における承認や、評価を求めているだろう。


 ここで生きていていいよ、という居場所がずっとなかった。幼少期、家庭が崩壊し、社会に出たら罵詈雑言、否定され続けていた。私は毎度「適応障害」と診断された。

 私が間違っている。私が弱いせいだ。私がすぐに、涙を零してしまうせいだ。だから皆苛立ってしまうし、私と居ても楽しい気分になりづらい。まさしく私に障害があった。そう、ずっとおもっていた——


 だけれど、それが全ての答えではないのかもしれない。日記を手書きしていておもう。滲んだり、よれたりする。それはデジタルではなかなか感じ取りきれない部分だ。少しずつ、少しずつ、おくれてはくるが、感情の整理や、自己理解につながってくる。「画面」を見ているだけでは気づかない心を掬い上げてくれる。

 あのとき、あの人はもしかしたらこんな気持ちだったかもしれない。攻撃的な言葉や棘のある態度に敏感な私だけれど、きっと私も誰かを知らぬ間に傷つけているし、失礼な態度もとっているに違いない。大人になるにつれ、いろんな環境、立場を経験して、何気なく今まで言っていたあの言葉は、本当は言ってはいけないことだったと気づく。そういう軌跡を、日記はしらせてくれた。


 手書きには、比喩でない実際の温度がある。これはデジタルを否定するものではない。実際私はこうして嬉々としてnoteも書いているわけだ。はやく誰かに届けたい、溢れてしまうという意味での「温度」は、存分にデジタルの世界に瑞々しく込められているだろう。

 どちらの良さも共存し得るとおもう。

 それは人それぞれに適応する場所があるようにして、自分に合った書き方を選んでいけばよいのだ。そしてたまに、居場所を変える柔軟さを身につけ、楽しんでいきたい。これは私が書いたものだと、書けたものだと、些細な日常の場面であっても誇らしくおもわせてくれないか。


 適応障害と言われ続け、その烙印を何度も押されてきた。私なんかに、適応できる場所なんてなかった。社会の一部にはなれなかった。それでも、手書きで日記を書くことが、私の"居場所の一部"になってくれたらと願う。

 何か毎日、たいそうなものを創り上げなければと躍起になる必要はないだろう。ただ1日1回、書くことが、私のわずかな成功体験として、あたたかく背中を押してくれている。


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詩旅 紡
作家を目指しています。