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「お前はどこへ行ってもやっていけないよ」と言われ続けた私の現在地


「また逃げるんだな」

 涙は枯れていくものだと思っていた。

 言われて私はカチンときていたのだろうか。ずっとその通りであったのに、腹が立ったり、情けない気持ちになるのは、痛々しい自尊心が邪魔をするせいだろうか。

 この傷口も、まだ瘡蓋かさぶたになってくれない。そろそろ半袖だと肌寒く感じるようになってきた。いつでも羽織れるシャツを持っているのは、人としてとても生きやすいだろう。

「ここで逃げたら、お前はどこへ行ってもやっていけないよ」

———飲み込んだ。

 どうせ出しても苦いだけであったから。言い返す元気も根拠もない。喉の奥のあたりが乾燥している。唾の一滴一滴が染み込んでいくようだった。 

 昨日、休職している会社の上司(人事)に「退職します」と伝えてきた。「回復していそうだったのに、どうしてだろうねえ」と話す上司に「わかりません」とうつむきながら、それでいて語気をほんの少し強める。本当は、わかりたかったからだ。


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 雨降る午前。上司との待ち合わせのカフェに私は先に到着した。駅から離れていた店だったためか、お客さんはまばらだった。入ってすぐ、レジの店員さんに私は話しかける。


「待ち合わせしている人がいるので注文は後でいいですか」

 一息に喋るには、私にとってあまりに長文だった。「大丈夫ですよ」と答えてくれた店員さんは、もしかしたら嫌なことがあった後だったかもしれないのに、笑顔を見せてくれた。「ありがとう」。笑顔の人を見ると、反射的にいつもそう思ってしまう。

 奥の席に座り、心療内科で書いてもらった診断書をカバンから取り出した。10月、これが最後の診断書となる。会話の途中でゴソゴソと出すのはできそうもないので、先にテーブルの上に出しておくことにした。のちに焦ることがわかっているなら、なるべく先打ちして準備しておく。私の人生の鉄則であり、お守りだ。こうすることができるようになったのも、つい最近だ。

 ふと、外に目をやる。

 開けてある窓から、凍てつくような風が吹き込んでくる。長袖一枚で十分かと思ったら、誤算だった。夏からこの温度に変わると人は「寒い」と言うが、極寒の冬に、今日のような日が差し込まれれば「今日はあったかくて助かるね」なんて会話がされているに違いない。

 人生、自分でどうにかできることばかりだ。私は椅子に、ほんの少しお尻の位置を動かしただけで尻餅をつきそうなほど先端に座っていた。


「遅れてわるいね〜」

 上司が10分遅れで店に来てくれた。優しい表情の人だ。思えば、この人に私は一度も叱られたことがない。朝礼が長引いて遅れてしまったそうだ。私が休職やら退職をしなければ、珈琲時間を長めに取れたり、他の仕事を片付けたりできたかもしれないのに、と、そんなことばかり考えてしまう。うやうやと脳内が思考で窮屈になってくる。

「寒いね。あったかい珈琲にしようか」

 嗚呼。この人と一緒にレジに並んでいると、私は子どもみたいだろうな。もう私も30歳を越えているというのに、そうとは思えない背中の丸まり方をしていただろう。かわって上司はシワひとつないジャケットに、かっこいいアップルウォッチをつけている。隙あらば私は人と比較し、劣等感を浴びにいく生き物である。同時に、もしかすると私は意図せず、人を見下しかねない生き物かもしれない。

 珈琲がふたつ、テーブルに置かれる。「どう?調子は」と聞いてくれた。事前に上司は分かっているはずだった。この日を迎える数日前に、「退職します」とメッセージを送っていたからだ。柔らかい問いを先に投げてくれる人は、総じて穏やかで、強い人だった。


「まったく、調子がよくなっていかないです」

 私は嘘をついた。

 本当はかなり元気な方ではあった。とはいえこの空間(カフェ)で身体を強張こわばらせている事実を見て、上司は疑う様子もなかった。実際、ここで自信を持って振る舞えない私には元気が足りなかったのかもしれない。ただ退職する時にはしんみりするものである、というのが、私の人生に染み込みすぎていた。


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 いままで、何度も退職してきた。

 新卒で入社した会社に復職できなかったときは、広く、黒っぽい会議室でそこの上司に責め立てられた。出来損ない、期待して損した、弱虫、クズ、ゴミ、お前なんてどこへ行ってもやっていけない、と言われた。

 ただただ時間が過ぎるのを待った。この人は、きっと私が想像もつかないほどのプレッシャーや責任の中で生きているのだ。私の何倍も嫌なことが日常、仕事の中であるに違いない。何もできずに塞ぎ込むしかできない私は、せめてサンドバッグでいようと思った。いや、実のところ、当時は何も考える余力もなかった。

 私はやはり、どこへ行ってもやっていけないのだろうと思った。逃げるようにしてその場を後にした。復職できなかった帰り道、私は胸の中で裂けるようにして泣いた。家に帰ればまたひとりで、私はそこかしこに暴れるようにして嗚咽した。けれども、私は再び就職活動を行い、無事また正社員として仕事にありつけたのだ。


「なんだ。私だってやれるんだ」

 そう思った。あの人は「どこへ行ってもやっていけない」と言っていたけれど、違ったではないか。目の下のクマは、根性焼きをされたかのように取れなくなっていたけれど。

 でもまあ、いいんだ。就職できたのだし。私はここで、自分らしく生きていく。やっと大丈夫になれるのだと思った。


 だが数ヶ月後、私は会社で居場所を失った。

「こんなにできないと思わなかった」と課長に言われた。そんなはずはなかったのに。

 私はよく職場でいじめられた。無視されたり、仕事を教わる機会も設けてもらえなかった。私が自分から仕事をもらいに行ったり、聞きに行くべきであるのは当然わかっている。わかっていて、それをやっていたのだけれど、私はどうやら空回りをしていたようだ。人の気持ちを考えすぎるところが、私は相手を苛立たせていたのかもしれない。

 トイレで過呼吸になっているところを、ひとりの従業員に見られ、その噂は一瞬で社内に広まった。腫れ物のように気づけば扱われていた。また私は深刻そうな顔をして退職を自ら切り出していた。


 正社員が無理ならアルバイトだと思い、様々な職場を転々とした。だがどれも上手くいかなかった。大抵誰かひとりに目をつけられ、いじめられ、居場所を失っていく。無理難題な仕事量を押し付けられ、断れない私はプレッシャーや責任で自爆していく。

 何度も過呼吸になった。新卒で入った会社でパニック障害を患って以来、私は少しの感情の変化で発作が起きるようになった。ひどいときは電車やエレベーターに乗れなくなり、外にも出られなくなった。人と話していると、突然汗が滝のように溢れてしまうことも増えた。あの日を境に、私はもう、"戻れなくなっている"ような感覚だった。


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「これからどうして行くか決めてるの?」

 今の上司は、とても優しかった。

「身体をとりあえず休めながら考えてみます」とだけ答えた。本当は、noteで、書く仕事に本気で取り組んでみることを決めていた。

 そうかそうかと、あたたかい珈琲に口をつける上司はなんでもお見通しのように見えた。

「〇〇さんや、△△さんに何か伝えておこうか?」

 私の直属の上司(○○さん)と、一番私とタッグを組んで仕事をしていた人(△△さん)がいた。

 私は、自分でメッセージを送りますと答えた。だがそもそも私は、直接会って話しますとは言えなかった。実際私は社内ではなくカフェまで人事の方に来てもらっている。自分が弱くて、たまらない気持ちだ。そんな私を見かねてか、上司が加えて提案をくれる。


「とはいえ、僕から何か一言でも言っておくよ。"ありがとうございました"って言ってたよ、とか」


 私はその言葉を聴いて、しばらく、10秒ほど固まった後、涙がぽろぽろと溢れてしまった。

 ありがとうございますと、私は言えるだろうか。

 昔から何かと「ごめんなさい」が口癖になっている。生きているだけで誰かの邪魔になっている気持ちが拭えない。誰かのためになったことをやれたとしても、私以外の人がやった方がよかったのではないかと考えてしまうし、本当は私がやるべきではなかったのではと考えてしまう。無論相手にとっても、これは失礼になりうる思考であることは自覚しているが、この染み付きは簡単には落ちてくれない。


 言えなかった。

 ありがとうございました。そう言葉が出てこない。この言葉が出てくるのが正解で、相手から見ても、それが最低限の礼儀かもしれない。


 でも、でも——

「ごめんなさい」「休職してごめんなさい」「復職できなくてごめんなさい」「仕事ができない人間でごめんなさい」「迷惑ばかりかけてごめんなさい」「せっかく親身に教えてくれていたのにごめんなさい」「アルバイトから入って、正社員になれるまで面倒を見てくれていたのに、結果的に辞めてしまってごめんなさい」「ごめんなさい」「私なんかが、この会社に入って、無駄な時間を過ごしてしまってごめんなさい」

 ぽろぽろと水滴とともに浮かぶ言葉たちは、どれもしおれていた。私はどこまでいっても弱いままであった。10年前の上司に言われた言葉は、正しかった。結局何も続いていないではないか。誰かのためになれていないじゃないか。どこへ行ってもやっていけていないではないか。これからやろうとしている書く仕事だって、ひとつもまだ収入がない。私は。私は。私は何のために生きている——



 気づけば昼頃になり、店内は少し賑やかになっていた。

 私はやはり子どものようにして目を、鼻をぬぐった。苦しくて、どうしようもなかった。ふつう、エッセイは最後前向きになるものではないか。「退職した!前向いて生きるぜ!」といった内容にしたかった。でもどうして。どうしてできないのだろう。

 嘘をついてしまえばよかった。そういうエッセイを書いて、嘘をついてしまえばよかった。前向いててえらい!私も頑張ろう!って思ってもらえるのがエッセイストではないのか。私はそうなりたいのだろう…?なぜできない。こうして書いているいまも涙が止まらない。何のために。誰の何のために私は書いているのだろう。


 社会人になってからいままでの10年間、色々あった。結果どれも仕事が続かなかったけれど、「続く」というのは、いったい何ヶ月、何年のことを指すのだろう。

 私は弱い。できそうに見えて、大抵のことができない。だからといって、障害年金をいただけるほどの人ではない。ずっと曖昧で、努力が人より足らず怠惰で、それでいてもせめて、人に優しくあることで、自分の心をいつも保とうとしている。

 どうしたら「やっていけている」ことになるのだろうな。私には書きたいことがありありと現れている。本当は明るいエッセイストになりたい。みんなの希望になるような、清々しくて、慎ましい感じだ。

 だが実態、こんなものだ。だけれどがめつく、私は泥濘ぬかるみを泳ぐのだ。

 無駄だったと思うことを、無理に意味あることに仕立て上げなくても良い。いまも生きているんだし。

「ありがとうございました」は、もうしばらくしたら送ろうと思う。


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