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社会が学校に求める3つの目標と矛盾


すっかり期間が空いてしまいました。


しかしながら、この間にメインの仕事は区切りを迎えました。
同じ仕事をしていらっしゃる方々は、年度末のなんとも言えない貴重な時期かと思います。

組織のミドルリーダーやトップに近い方々は、引継ぎや次年度準備が山積み…という方々もいらっしゃるかもしれませんが…自分も「塩漬け」にしてきた仕事に手を付けています。終わる頃に新年度ですかね笑

今回は、読んでいた本の中で、「社会が学校に求めるもの」をとても端的に表現していた箇所があったため、その部分について簡単にまとめたいと思います。


神代健彦「生存競争(サバイバル)」教育への反抗 (集英社新書 2020)


この「社会が学校に求めるもの」は、著者の神代氏が、デビッド・ラバリー著、倉石一郎・小林美文訳『教育依存社会アメリカ――学校改革の大義と現実』(岩波書店 2018)に記されていた「教育依存症候群」を基に、日本の実情に合わせて整理したものです。


アメリカの事例が基ではありますが、日本もまったく他人事ではないなぁと感じました。

※引用部分は全て神代(2020)です


1 社会が学校に求める3つの目標

 

 多くの場合、社会が教育、とりわけ学校に求めるものは、以下の3つだとしています。

①「社会移動」…各個人が生まれた階層・階級の壁を越えて、より高い社会的地位や待遇を獲得することである。
個人は学校教育によって―より率直に言えば学歴の獲得によって―、親よりもより高い社会的地位や手厚い待遇を得ることが可能になる。その時、学校とは、社会移動を達成する手段となる。

「社会移動?」となってしまいがちですが、何を移動するかというと、つまるところ社会的なヒエラルキー(階級)を移動する、という目標設定です。いわば個々人による、ゆくゆくの「下剋上」の手段としての教育や学校という考え方です。
「良い学校に通えば、良い企業に~」は、その典型かもしれません


②社会的効率…政治家や官僚、経済界のリーダーたちは、しばしば学校教育を経済発展のための手段として捉える。学校教育は、子どもをより生産性の高い労働者(人的資本)として育て上げることによって国全体の経済効率を高め得るし、またそうすべきであると主張する。

つまり、社会の「戦力」を育てよう、という発想です。何だか資本主義的な香りが漂いますね。


最近の典型で言えば、経済産業省が言い出しっぺの「プログラミング教育」でしょうか。文部科学省の尽力により、「プログラミング的思考」という教育文脈に着地して現場に降りてきていますが、元を辿ればSEやプログラマーの圧倒的な不足を、教育の力で補おうとする発想からスタートしていることを踏まえれば、「社会的効率」という目標がその先にあると言えそうです。(もちろん、プログラミングを学ぶことにより、子どもの自己実現が促されやすくなるという面は否定しません)


③民主的平等…すべての人々に平等に教育の機会を与えることで、合衆国の「市民」を創りだすこと。

アメリカが基なので「合衆国」という表現になっていますが、言い換えれば、社会の一員を育てよう、人々の社会的自立を促そう、という発想と言えそうです。最も福祉的な目標のように感じます。


おそらく現代日本においても、学校現場に限らず、社会における教育の目的は概ねこの3つが混在し、共存しているように感じます。

ただし、この3つが共存?している状態についても言及されています。


2 せめぎ合う3つの目標

そして困ったことに、これら3つの目標はしばしば矛盾・競合する。

としています。
概ね、次のような感じです。


「社会移動」をしたい人
ライバルが増えてしまうから、できるだけ希少な方が良い…「民主的平等」に反する


「社会的効率」を要求する人
全ての人に教育を保障するのは非効率…「民主的平等」や「社会移動」の目標と衝突する


「民主的平等」を目標とする人
既に他の2つと相反していますね…


教育の内容面で言うならば、そこで教えられるカリキュラム(なにをどの順番で教えるか)について、産業の発展に役立つようなものにすべきなどと財界人が注文をしているのは、世界中でよく見る光景である。


これは日本でも似ていますね。


3 「なんで勉強するの?」に対する問いで、その人の「目標」が読み取れそう


自分なりの解釈ですが、「なんで勉強するの?」という良くありがちな問いに対する答えで、その人が教育、とりわけ学校に求める目標が読み取れそうです。


「勉強すれば、良い学校に行けて、良い学校に就職したり、出世できたりするよ」…社会移動
「勉強すれば、世の中に出て役に立つことを知れたり、身につけられたりするよ」…社会的効率
「勉強すれば、みんなと平和に暮らしていくための力が付いていくよ」…民主的平等


みたいな感じでしょうか。
また、不平不満からも読み取れそうです。


「成績とか偏差値上がらなきゃ意味ないよ!」…社会移動
「こんなこと学習して何の役に立つの??」…社会的効率
「教育を受けられない人がいるのはおかしい!」…民主的平等


教育や学校に対して、どのような目標を潜在的にもっているか、会話の節々から垣間見えそうです。


4 そして全ての要求は学校に

このように、複数の競合する目標や要求が同時に課された時、学校教育制度はどうなるだろうか?
一つの方向性として、学校教育制度は高度化・複雑化することによってそれに応えようとする。

…もう答えは出ていますね笑
改革をしようとしても、あるいは改革をしても、目標同士が矛盾しているから、もれなく改革は「失敗」を含むものになります。すると元来保守的な性格をもつ学校組織はますます保守的になる一方で、変化する社会は改革を要求します。


間違いなく人々は、教育の可能性を信じている。教育を自分たちの世俗的な幸福や理想的な社会建設のための切り札として、これ以上なく頼りにしている。そしてだからこそ、学校が言うことを聞かないのが許せない。「右」も「左」も「真ん中」も、異口同音にこう叫ぶ―「もっといい教育を」「そのために学校を変えろ!」。
 人々の教育依存症候群は、学校改革依存症候群でもある。


なぜ教育改革がうまくいかないか、についての理由が、端的にここにあるような気がしました。


5 終わりに


 この矛盾についての解決策を、自分が持ち合わせていないのが本当に申し訳ないですが…しいて言えば、どれかの目標が他の目標を包括するように、制度を高めていけばその突破口は見えるかもしれません。

 とりわけ、経済的に発展した日本において現代は転換期です。これまでのような産業・経済的なイノベーションを求め続けるのか、あるものに満足する自然な暮らしに軟着陸するのか…重要なのは、1人でも多くの人々が、どれか1つの目標に囚われず、自立的に教育や学校制度を考えることなのかなぁと個人的には考えています。


皆さんはどう考えますか??




最後までお読みいただきありがとうございました^^


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