読書メモ、訂正可能性の哲学「第1部」
「第1部」を読んだので、メモを書いています。
家族と公共の話
・閉ざされたものとしての家族
家族とは所有権の継承、相続の法的根拠になる。つまり個人の所有をめぐり、所有が個人に属する閉ざされた社会の機能である。
・開かれたものとしての公共
哲学は伝統的に公共について論じてきた。
プラトンは選ばれし統治者は家族を持つことを否定し公にコミットする理想を描いた。ヘーゲルは国家という前提がなければ、そもそもプライベートな所有を持つ主体にはなりえないと考えた。ハンナアレントは、公共に貢献することが人間の条件だと言った。
ロシア革命の後、家族による私的所有は最小限にして、公に収斂すべきという思想のもと社会実験に乗り出した。
・エマニュエルトッドの指摘と社会の形
家族の形態を核家族、直系家族、共同体家族の3つに分けて考えた。狩猟時代は、共同体家族でまとまって遊動していたイメージがあるが、古くから核家族がもっとも普遍的だったと主張しているらしい。これにはかなり驚いた!そして、儒教は直系家族に最適な思想だったと言っている。そして家族形態の変化によって儒教は形骸的に衰退していった。つまり家族形態が社会常識や思想に影響を受ける。うむ、なるほどと膝を打った。
日本で考えると、人工減少期に入っているが、世帯数は増えている統計がある。田舎でも新築がやたら増えている印象があった。つまり都市部だけでなく、ここ2, 30年くらいで、急激に核家族化しているだろう。
現在行われている都知事選のポスター問題など、これまでのコモンセンスや美意識や倫理がまったく無効化されるような現象が観察されている。
このような現象も家族形態の急速な変化に対応した、社会思想や哲学が追いついてないのも、ひとつ原因としてありえそうだ。
こども家庭庁なるものができたが、家族という私的領域の問題(たとえばDVとか虐待)を警察や行政の窓口で対応件数が増えているようだ。家族の私的領域はどれくらい担保されるべきか、公にどこまで委ねるか、家族形態の転換にともなって、両者の綱引き状態に見えてきた。夫婦別姓反対問題も長男が家を継ぐという直系家族に適した制度思想だからだよね。
共産主義は家族の否定だったが、実は共同体家族という新しい家族形態によって支えられたイデオロギーに過ぎないのではという指摘もめっちゃおもしろいなと思った。自由主義も変わらない。
私たちは家族という単位でしか関係を結べないし、思考の基盤も作れないかもしれないという諦観は新鮮だった。
ヴィトゲンシュタインとクリプキが考える、意味の発生
前期ヴィトゲンシュタイン=自然言語を現実にきちんと即して論理的に使えば、世界の真偽は判定されるだろうと考えた。つまり、論理によって世界の真理は解明できると。
後期ヴィトゲンシュタイン=言語は状況によってしか意味が立ち上がらない。そして人間は言語ゲームの中を生きているが、どんなゲームをプレイしているのか、はっきりとはわかっていない。
言語ゲームは、常に同じであることはありえない。なぜなら、先に書いたように、どんなゲームをしているか、私たちはわかっていないからだ。
他者から言われた言葉の使い方に影響されて、その言葉の含意するものが社会一般的な観点からずれたものに帰結されたりする。
ヴィトゲンシュタインが「家族的類似性」という言葉で、表現したのは、ある共同体の言語ゲームが、閉鎖し続けることができないことを示すためだった。つまり、実は家族という単位も移り変わるもので、ずっと閉じている性質のものではないと読んでいる。
クリプキは、ヴィトゲンシュタインを再解釈し、意味とは他者依存的だと考えた。彼の主張は、1+1=2のような、数学的な真理と思われているようなものも言語ゲーム内における、他者とその式の意味を合意しているからのみ立ち上がるとした。この主張によれば、私たちが誰を仲間と思うかなどと言ったことも、ある共同体のなんとなく合意した意味が立ち上がっているに過ぎない。つまりクリプキの結論は言語より先に共同体の存在が必要で、共同体からの参加者へのルール理解を求めるというものだった。しかし、著者の考えではその逆もしかりで、参加者から共同体へのルールの訂正を求める力も働くということをもっと認識することが重要だと言っている(と思う)
続いて固有名と一般名の違いを説明している。
自分の理解力だとうまくパラフレーズできないが、以下のようにいまのところ理解した。
このへんをわかりやすくパラフレーズがあれば聞いてみたい。
固有名=たとえばソクラテスという名詞が、研究によって女性だと判明した場合、ソクラテスは女性であると表現する。述部の定義が変わるだけで主語の部分は変わらない
一般名=定義が変わると、違う言葉に置き換わるもの?
家族という概念の修正、そして政治思想も
いま家族という概念はめっちゃ柔軟になってますよねという提案から。同じ家に住んでないことも多い、里親などの血縁がない場合も多い、ペットは家族なのか?、事実婚は?
カールシュミットは政治とは共同体の内と外、友と敵の境界線を決め、外を排除するものだと言ったらしい。
だが、著者の問題意識は家族という概念も変化しているし、観光客という内と外の中間にいるような主体が増えた中、そのような中途半端な存在を前提に政治思想もアップデートされるべきと考える。現在はかつての右翼左翼のような核となる主張のような対立ではなく、小さい集団や個人のアイデンティティに紐づく問題がすべて政治的な問題になっている。だからこそ、公に関わる訂正可能性を含む家族や観光客といった主体に合わせた政治思想が必要なのだ。
つまり、正義や正しさという概念は、いまよりももっと動的に捉える構えが必要であると言っているように聞こえた。
リチャード・ローティー
「偶然性・アイロニー・連帯」という本を書いた、リチャード・ローティが紹介される。
要約すると、自由という概念と公共という普遍性の両立の限界、および人の連帯における基礎に思想より身体を置こうという提言である。
人は価値観でつながっていると思われているし、現実の組織や企業などもある価値観の共有によって、成り立っている部分もある。
だが、ローティは価値観や正義といった「概念」よりも、あなたの身体の苦しみはないですかといった、目の前の人間の「身体」性に連帯の基盤をおいた方がいいのではと考える。
これは、マイケル・サンデルなどの主張に近いように思った。
彼は有名なトロッコ問題で、暴走したトロッコを止める方法の2択で、5人助けられるか1人助けられるかという思考実験をしている。
1つ目は、レバーを使って5人の方から、1人の線路に変える方法。この方法の場合、5人を助ける方がいいと考える人が多い。
2つ目は、崖の上から、太っている人を突き落とすことで、5人を助けることができる。この方法だと、突き落として5人助けようと考える人は少ない。
功利的、帰結的に考えると、得られる効用は5人助かるという同じ状況にも関わらず、後者の「身体」を突き落とすことによって、その目標を達する選択を取る人が減る。
つまり人間にとっての選択基準や他者との関わりには、「概念」よりも、自分の近くにある他者の「身体」が極めて重大な影響を及ぼすという結論である。ゆえにマイケル・サンデルは、仲間意識の基盤を、概念でなく、身近な身体の中に見出そうと考える、コミュニタリアンという発想になっている。
話をローティに戻すと、共感とか、想像力に頼ることこそ、差別の温床ではないかと批判が起きたらしい。
しかし、哲学といった「概念」ではなく、「身体」を通した感情の働きと、その感情の交換ゆえにつながったという経験の時間的蓄積によって、連帯を広げていけると考えたと言えるだろう。実にプラグマティストっぽい。
第1部の最後
著者の人文学に対する真摯な向き合いが語られている。
私たちの歴史は、時の経過を積み重ね、過去の著作を読み直したり、少しずつ訂正することで紡いできた。
人間にとって時間が経たないと、その意味がわからないことや、どのように間違っていたか、など、この瞬間では理解ができないことがある。
人文学ががんばるべきは、そこを丁寧に向き合うことだという著者の真面目な姿勢が印象的だった。
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