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【読書15】北大路魯山人 日本料理の基礎観念
私どもが旅行をしますと、汽車の弁当を食ったり、旅館の料理を食ったりしなければなりませんが、それらはいかにも不味まずくてまったく閉口します。そういう日本料理というものはまるでなっていません。
まだ西洋料理ならいくらか食べられます。また、中国料理でもそうです。してみると、西洋料理とか中国料理とかいうものは、拵こしらえ方がやさしいのだ、単純なのだ。
まずくて困りますよね。西洋料理や中国料理の方がマシです。シンプルなんですね。
ひと通り覚えれば、誰にでも簡単にやれるのでありましょう。ところが、日本料理というと、そうはいかないのでありまして、私どもが料理人を使っていて、朝から晩までガミガミいっていましても、なかなかうまく出来ない。
ハードルが高くてうまく作れません。
しかし、日本料理がうまく出来ると、われわれ日本人には誰の嗜好しこうにも合って、その料理がわれわれの味覚にぴったり適するのです。しかし、このぴったりがなかなかいかないのです。
でもその味を出すのは難しいんですよ。
料理とは食というものの理ことわりを料はかるという文字を書きますが、そこに深い意味があるように思います。ですから、合理的でなくてはなりません。ものの道理に合わないことではいけません。ものを合理的に処理することであります。割烹かっぽうというのは、切るとか煮るとかいうのみのことで、食物の理を料るとはいいにくい。料理というのは、どこまでも理を料ることで、不自然な無理をしてはいけないのであります。
合理を追及して無理して作ってはいけませんよ。
自分の料理を他人に無理強じいしてはなりません。相手をよく考慮して、あたかも医者が患者を診断して投薬するごとく、料理も相手に適するものでなくてはなりません。そこに苦心が要いるのです。医者が患者の容態ようだいが判わかるように、料理をする者は、相手の嗜好しこうを見分け、老若男女いずれにも、その要求が叶かなうようでなくてはなりません。
料理を食べる人々の好みを見分けて作らないといけません。
原料の原味を殺さないのが料理のコツのひとつであります。きゅうりならきゅうり、そらまめならそらまめに、それぞれの持ち味があるのですから、その持って生まれた味を殺さないように工夫しなければなりません。
今のところ、とにかく高級を意味する料理のためには、なるたけ「味の素」は使わないのがよいと思います。
そこで食器のことになりますが、せっかく骨折ってつくった料理も、それを盛る器が死んだものでは、まったくどうにもなりません。料理がいくらよくても、容器が変な容器では、快感を得ることができません。私は生きた食器、死んだ食器ということをいっておりますが、料理を盛って、生きた感じがしますのと、なにもかも殺してしまう食器とがあります。
実際、料理といいますのは、好きでつくるというのでなくてはなりません。それが趣味であります。ただ知って美味くつくるという知識だけではなく、温かい愛情で楽しみながらやるという気持であります。
終わりに、醤油しょうゆについて、ひと言申し上げておきたいと存じます。濃口こいくち醤油ではどうもよい料理ができないのです。薄口というのがあります。これは播州竜野ばんしゅうたつのでできるのですが、関西では昔から使われています。東京にはこれまでありませんでした。近頃、山城屋には置いています。実際、薄口でなければ、ほんとうによい料理はできません。
■感想
北大路魯山人の料理エッセイである。料理は合理的である事や
食器の重要性、個々人への配慮など生活知を凝縮した内容であります。
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