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平安時代、「異族襲来」に巻き込まれた男の壮絶な体験

画像=藤原隆家。刀伊とい入寇にゅうこうに対応した貴族。

 歴史に名を遺す人間は、政治家・武将・文化人など何かしらの業績を成し遂げています。

 行政文書に役人や庶民の名前が記録されていることはありますが、そうした「無名の人」が印象に残ることはまずありません。

 ところが、歴史の中に埋もれていくはずの「無名の人」の事績が、強い印象をもたらすことがあります。

 先日紹介した『刀伊の入寇』(中公新書)には、以下のような逸話が紹介されています。

「刀伊の入寇」の概要

「刀伊」とは現在の中国東北部~ロシア沿海州に住んでいた狩猟民族・女真人を指すと考えられています。
 平安時代後期の1019年、刀伊の賊が50隻余りの船団で対馬・壱岐・北九州を襲撃し、約400人が殺害され、約1300人が拉致されました。しかし、太宰府に赴任していた貴族・藤原隆家の指導や地元の武士たちの奮戦によって撃退されたという事件です。

家族を連れ去られた役人

 さて、当時の対馬には長峯諸近ながみねのもろちかという在庁官人がいました。在庁官人とは都から赴任したエリートではなく、現地で採用された役人を指します。

 刀伊の賊が襲来した時、諸近とその家族(母と妻子)は賊の船に拉致されました。諸近自身は、刀伊軍が日本を退去する前に脱出します。

 家族を連れ去られた諸近は、「老母や妻子と離れて一人生き残っても、何の意味があるのか」と思い、家族を探しに小舟に乗って高麗に渡ります。無断で海外渡航してはならないという国禁を犯しての行為でした。

家族を奪還するため異国に上陸

 高麗に渡った諸近は、通詞(通訳)の仁礼という人物に会い、高麗の水軍が刀伊の賊と戦い、撃退したことを聞きました。さらに、日本人の捕虜が多数救出されたという情報も得ます。

 諸近は家族を探し、金海府(高麗の南部)という所に向かいました。しかし、そこで出会った日本人捕虜から残酷な事実を告げられました。刀伊の賊が高麗沿岸で若者を捕虜にすると、老人や女子供らの捕虜は海に投げ入れられ、その中に諸近の老母と妻子もいたというのです。

諸近の冒険が記録に残った理由

 失意に沈む諸近でしたが、唯一伯母が生き残っていたため、彼女を伴って帰国します。彼は国法を破って無断で海外渡航した身です。そこで、高麗に要望して10人の捕虜と同行して帰国することにしました。罰を受ける覚悟はありましたが、少しでも自分に有利になるように証人を連れ帰ったのでしょう。

 九州の政務を統轄する太宰府は諸近の一件を聞き、彼の身柄を拘禁します。そして、中央に報告して判断を仰ぎました。この時の証言が、藤原実資の日記『小右記』に記され、後世に伝わることになったのです。

 彼がその後どうなったか、伝える史料は残っていません。


 もし何の事件も起きなければ、長峯諸近という一地方役人の名前が後世に残ることはなかったでしょう。単身異国に渡る胆力に驚かされるとともに、賊に奪われた家族を思う諸近の心情に、千年の時を超えて共感を覚えずにはいられません。

 

 

 

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