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恋と学問 第30夜、感情のリハビリテーション。

本居宣長の著作「紫文要領」の結論部分を読み解く、全3回の2回目です。今夜は引用から始めます。

問ひて云はく、古への歌をまなぶといへるは、いづれのころの歌をさしていふや。答へて云はく、中古以来の学ぶところ第一、古今集也。さては後撰・拾遺、此の三代の集を手本として詞も情もこれをならひてよむ事也
(岩波文庫版「紫文要領」176頁)

【現代語訳】
質問がありました。「古代の歌を学べと言うけれど、どの辺の時代の歌を指して言っているのか?」私は次のように答えました。「中世以来の慣例で、最も学ぶべきとされているのは古今和歌集である。これに続く後撰和歌集と拾遺和歌集を合わせて俗に三代集と呼ぶが、この三代集を手本にして言葉も心も模倣して詠むとよい」と

宣長は言います。歌の理想は三代集である、だからあなたが詠む歌も三代集を模倣すべきである、と。この主張自体は藤原定家以来、誰もが言ったことで、宣長の独創ではありません。しかし、印象派の絵筆にかかれば、何でもないリンゴが異様な存在感を放つように、この月並みな主張も、「紫文要領」の結論部分に置かれることで、特殊な意味を帯びてきます。

前回を思い出してください。歌は内面の暴露、心の奥底に秘めた思いの告白という、感情を有するすべての動物が抱くにちがいない、普遍的な欲求として定義されました。この欲求は「もののあはれを知ること」を引き金に湧き起こる欲求で、今知った物の哀れを人に語って聞かせたいという願いが、歌という具体的な形になって現れるのだと、宣長は主張していたのでした。

このような人間観から、平安時代初期の歌を模倣せよとの要求に進むのは、またしても、と言いますか、ずいぶんと飛躍があるように思えます。歌うことが人間にとって単なる趣味事ではなく、食べることや笑うことに並ぶ、本来的な欲求なのだとすれば、思ったことを思ったままに口にするのが本当の歌ではないか?古代の歌を真似て歌う必要など、どこにもないはずではないか?

さて、飛躍を埋めることが読者に課せられた仕事になりますが、キーワードは「感情の劣化」です。この言葉は社会学者・宮台真司から借りており、今から展開する議論も、その多くは彼の言葉に負っています。

なぜ、内面の暴露(告白)への止むに止まれぬ欲求の表出形式、すなわち「歌うこと」が、古歌の形式に則った形に「矯正」されなければならないのか?結論から言えば、この「矯正」の目的とは、現代人の「感情の劣化」を回復するために行われる、一種のリハビリテーション(機能回復訓練)なのです。しかし、こういうことを言うと、すぐに反論が予想されます。「そもそも、現代人の感情が劣化したと主張する根拠は何だ?」と。・・・感情の質は具体的に指し示しづらいものです。実際、宣長も苦労して、言語によって非・言語的な領域に踏みこんでいます。

一つ二つ其の例を出だしていはば、古へと今と月花をめづる心をくらべて見よ。今の人はいかほど風雅を好む人とても、むかしの歌又は物語などのやうには深くめづる事なし。古への歌や物語を見るに、月花をめづる心の深き事、又それにつけて思ふ事のすぢを感じてものの哀れをしれる事など、今とは雲泥のたがひ也。今の人は一わたりこそ花はおもしろし、月は哀れ也とも見るべけれ、深く心にそむるほどの事はさらになし。
(中略)又恋の歌をよまむに、今人ごとに色好まぬはあるまじけれども、古へのやうに命をかくるほどのわりなき恋する人もすくなかるべし。此のすぢに命を捨つるものは今もおほけれども、其のおもむき心ばへは古へと大きにこと也。
(中略)今の心のままによめらんはいとも見所あらじ。今の心とは相違すれども、ただむかしの歌にならふて、むかしの人の情のごとくによむが今の歌のよみかた也
(168~169頁)

【現代語訳】
いくつか例を挙げてみましょう。古代人と現代人、月花に感動する心持ちは同じでしょうか?いいえ。現代人は、どれほど風雅を好む人と言ったって、昔の歌や物語などのようには深く感動していません。古代の歌や物語を見ていると、月花に感動する心の深さ、感動に伴って物の哀れを知るありさまなどについて、現代人の感情とは雲泥の差があります。現代人もそれなりに、「花は面白い」「月は哀れである」などと観賞していますけれど、感動が深く心に染まるほどの事態には決してなりません。
また恋の歌を詠もうとしても、同じことが言えます。現代人だって、誰もかれもが恋愛を好んでいますれけれども、古代人のように、命をかけてまで道理に反した恋をする人は少ないのです。いや、恋の道に迷って命を絶つ事件は現代にも多いじゃないか、と言われるかもしれませんが、その事情や感情が古代人のそれとは大いに異なるのです。
さて、このように古代人と現代人とで、感情の質が大いに異なるのですから、現代人が素直な気持ちで詠んだ歌などに見所があるはずもありません。したがって、己の素直な気持ちとは相違するけれども、昔の歌の風情を模倣して、昔の人の感情を己も有しているかのごとくに詠むこと。これが現代人の歌の詠み方になるのです

宣長は断言を避けていますが、明らかに、ここには現代人と古代人の対比があり、現代人の感情は古代人のそれと比べて劣等なものであるとの判断があります。私たちが漫然と眺める月は、果たして古代人が無限の感慨を催した月と同じものだろうか?私たちもそれなりに恋に熱中するけれど、古代人が生き死にをかけて行ったように、恋は人生において大きな比重を占めているだろうか?

これらの命題を、具体的な事物を持ってきて証明することは困難です。ですが、古今和歌集や源氏物語といった古典をひたすら味読した者なら分かってくれるはず。宣長はそこに期待します。

むろん宣長の答えは否、です。ならば、次にこう問わねばなりません。「私たちの感情はいかにして劣化したのだろうか?」と。宮台真司の言葉で補足しましょう。

ウェーバーは〈生活世界〉が〈システム〉に置き換えられていく動きのことを「近代化」ないし「形式合理化」と呼びました。この意味での「近代化」が進むと、いずれは必ず「モダンからポストモダンへの変化」という逆説が起こります。どんな逆説なのか。〈生活世界〉が〈システム〉に置き換わっていくプロセスの当初においては、〈生活世界〉を生きる「我々」が、より便利で豊かになるための便宜や手段として、〈システム〉を使うのだと、自己理解できました。ところが、〈システム〉がある程度以上に拡がって〈生活世界〉が空洞化すると、もはや「我々」が〈システム〉を使っているとは言えなくなります。「我々」や〈生活世界〉というイメージすら、〈システム〉の構築物つまり内部表現だと理解するほかなくなります
(宮台真司「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」幻冬舎文庫、2017年、177~178ページ)

近代化とは、今まで生活世界から調達していた便益を、システムによる便益に置き換えていく過程のことです。近代化は端的に言ってシステム化のことです。システム化された世界の内では、人々は事前に決められた一定の役割を負って人々に対面し、マニュアルに沿ってコミュニケーションを取ります。そこには偶発性(ハプニングの要素)がなく、結果は合理的に計算可能です。要するに、システム化された世界におけるコミュニケーションは、「誰であっても同じ結果になる」ように設計されています。あなたにビッグマックを提供するマクドナルドの店員は、必ずしも「この人」である必要はなかったように。

江戸時代は、このようにシステム化された世界、合理的で、計算可能な、効率を最優先する、脱人称的で、役割既決的な人間関係の世界が、生活世界の領域を覆ってゆく過程の始まりでした。歴史学者が江戸時代を「近世」、言い換えれば「近代を準備した時代」もしくは「日本近代の原型」と位置づけるのは、そういう意味です。宣長を含め、江戸時代のすぐれた学者に共通するエートス(心の構え)は、こうした近代化への深い疑念でした。

宣長と並ぶ江戸時代の大学者・荻生徂徠は、その著書「論語徴」で、人間・孔子の実像を明らかにしています。それは直接的には、高級官僚の基礎教養としての朱子学が、孔子の教えをシステマチックな治世術に矮小化していることへの批判でしたが、大きく言えば「システム化された世界」への反発でもありました。

彼等が現代の状況に抱いた批判意識の奥底には、「システム化された世界がどんなに人間を堕落させるか」という問題意識があります。ここで「感情の劣化」の問題に戻ります。システム化された世界に置かれると、なぜ感情が劣化するのかについて述べた、宮台真司の言葉を紹介します。

この社会は解離を奨励する社会です。そのことは、例えば、企業研修プログラムや就職活動マニュアルの中身が、ここ20年ぐらいでだんだん変わってきたところにも見出せます。かつては「理想的な自分を現実化するには、どうしたら良いか」という問題設定だったのが、「場に応じて最も適格な人格を使い分けるようにするには、どうしたら良いか」という問題設定に変わりました。かつては「自己実現する」がキーワードでしたが、最近は「KYを回避する」、つまり「場に応じて適切な振る舞いをする」ことが強迫的に推奨されます。なぜか。理由は過剰流動性です。解離化は、過剰流動的な環境に非常に適合的なのです。過剰流動的な環境は、人格システムに巨大な情報処理負荷をかけます。この負荷を、単一のCPUで処理するよりも、複数のCPUで処理を分散して緩やかに結合する方が、情報処理能力が上がります。それが「適合的だ」と言う所以です。
(中略)一般的に過剰流動的な社会では、関係性の正当性を弁証しにくくなります。「私でなければいけない理由」がどんどん希薄化するからです。それゆえに、社交的な人ほど、逆説的な状況に引き裂かれて、退却傾向に陥りやすくなるのだと考えられます。
過剰流動的な社会は、関係性をつまみ食いするようになるので、人格の「まともさ」を要求しなくなります。むしろ、場面に応じて最も合理的な振る舞いをすればそれでOK。自分や相手が何者なのかは問われません。つまり「うまく生きるために必要なこと」が「まともに生きるために必要なこと」から大きく乖離するのです。そうした社会では、「まともに生きよう」とするとかえって「うまく生きられなく」なります
(165~168頁)

役割ごとに期待される人格が規定されている上、その役割すら次々に切り替わる過剰流動的な社会では、今この瞬間に求められている役割に応じて、その場その場の最適解を選んで行動せざるを得ず、「まともに生きる」よりも「うまく生きる」ことが優先されます。自らの価値判断を保留して状況適応を繰り返すうちに、己が「他の誰でもよかった存在」になってゆく。今、この口から発せられた言葉は、己の意思が言わせたのか?それとも、たんに状況に言わされたのか?今、悲しいと感じたのは、本当に悲しいと感じたからか?それとも、状況から見て悲しいと感じるべきと感じたからか?・・・近代人。この引き裂かれた人間。空っぽな言葉。まがい物の感情。

劣化した感情の回復をどう目指すのか。宣長の到達点は「古典」でした。とはいえ、はじめからそれを目標にしていたのではありません。宣長は若くしてすでに古典の愛好家でしたが、あとからその意味を知ったというのが正しい。「俺は古今和歌集が好きだ」から、「なぜ俺は古今和歌集が好きなのか?」に進み、「古今和歌集から古代人の心を知り、その心を己の心に染み込ませ、そこへ己の心を近づけてゆくことに、全人的な感情の回復があるからだ」まで到達した。このときにはじめて、たんなる愛好家が学者に脱皮したのです。

先ほど荻生徂徠の話を出しましたが、彼や宣長に限らず、「古典によって近代に対抗する」という構えは、江戸時代の大学者すべてに共通する態度です。それでは「宣長の特異性はどこにあるのか?」と問われれば、やはり「恋を学問した」という一点に尽きるでしょう。今夜の話題に合わせた言い方をすれば、「日本の古典が孕む〈恋の思想〉によって感情は回復できる」と発見した点に求められるでしょう。この点でも、宮台真司の議論がじつによく符号するので、最後に触れておきます。

これだけ流動性が高く多元的になった社会では、「深くコミットする」「相手の中に入る」といった営みはリスキーです。逆に言えば、過剰さを回避しないと、人間関係を安定的に維持できなくなります。そうした社会状況への適応のために、浅く表層的に戯れようとするのでしょう。ところが、近代の性的領域においては、「偶然を必然に変換すること」あるいは「内在に超越を見ること」でタダの女(男)を運命の相手と見做します・・・普通の女(男)を運命の相手と見做すことで家族形成が可能になり、ただの集団を崇高なる故郷と見做すことで国民国家形成が可能になるからです・・・「ただの女(男)を運命の相手と見做すことは如何に可能か」。18世紀末以来のフランス恋愛文学における基本的問題設定です。回答として見出されてきたのは、相手の心に映るものを自分の心に映すこと、そしてそれを前提に時間をかけて苦難に満ちた関係の履歴を積み上げること。そう。表層的な戯れの延長上に、必然的な関係なんかできるはずもないんです。・・・互いに相手の心に深くダイブする者たちだけが、性愛を通じて絆を作り、それをベースに家族を形成し、ホームベースを作ってきました
(宮台真司「社会という荒野を生きる。」ベスト新書、2018年、298-299頁)

ここでは、宣長の「恋の学問」が、ヨーロッパ発祥の社会学と不思議に響きあっています。恋は近代の人間関係にとって「異物」です。しかし人間は、この「異物」なしに近代化されシステム化された世界に耐えられない。異物はやがて子を孕み、家族を形成し、そこから共同体に参加するようになります。ホームベースはシステム的な世界からの「避難場所」と思われがちですが、とんでもない。実際は、システム的な世界へと飛び立つための「出撃基地」なのです。このホームベースを持たない人間は、システムに翻弄されるだけの憐れな歯車に成り果てます。

そうならないためにも、私たちはホームベースを作る必要があります。ホームベースを作るには、本当の恋(恋愛に基づく人間関係)を始める必要があります。本当の恋を始めるには、感情をリハビリテート(機能回復訓練)する必要があります。「感情をリハビリテートする最良の方法」の一つとして、宣長が発見したのが、「古歌に学んで自ら歌うこと」だったのです。

以上で冒頭の設問、「普遍的な欲求として定義された歌が古歌の模倣という制約を受ける理由」に、答えたことにします。

宮台真司は別所(「日本の難点」)で、哲学者のアリストテレスがよく用いたギリシア語の「ミメーシス」に、「感染的模倣」という訳語を当てて、「スゴいやつを見ると、アイツみたいになりたいと思う」という素朴な心理反応が、理屈で説得されたり頭ごなしに強制されたりするより、人を動かす力になると述べています。

まさに、宣長がそうでした。彼は紫式部やら、藤原定家やらの感情の強さに出くわして、心底びっくりしたにちがいない。ひるがえって、己を含む現代人の感情を点検したとき、その劣化したありさまに気づいて呆然としたにちがいない。そして、さらに進んで、「感情の回復」の糸口を、昔も今も変わらない人間の営みである〈恋〉の中に発見した。なお、この確信を宣長は、源氏物語に描かれた恋と、自らの壮絶な恋愛体験(第2夜に詳述)から得ました。

宣長の発見は次のようにまとめられます。

古典には〈恋の意味〉が記されている。恋は世間という荒海(システム化された世界)に流されることなく、自らの意思で漕ぎゆくために必要不可欠なオール(櫂)である。むろん、誰だって恋くらいする。ただし、平均的な現代人のように、恋を軽く扱えば、恋は本来の役割を果たさず、世間の波に翻弄され漂流してしまう。古代人が行った恋は、断じて気軽な道楽ではなかった。替えのきかない生の充実をもたらす反面、そのために肝心の命を落とす危険もあった。古典によって恋の意味を知るとは、古代人を「感染的に模倣」して、自らも必死になって恋をすることだ。なぜそんな得にもならない面倒なことをするかって?劣化した感情の回復の可能性と、システム化された世界に対抗できるだけの、強靭なホームベース(家族)形成の可能性を、恋は孕んでいるから。

さあ、今夜はこのへんにしておきましょう。

いよいよ、残すところ1回になりました。最終回は「紫文要領」の結論部分の末尾の文章(これが大変に美しい)をじっくりと味わいます。もうしばらくお付き合いください。

それではまた。おやすみなさい。




【以下、蛇足】




今回のテーマは、「歌は内面の告白への普遍的な欲求であること」と、「歌を詠む際には古歌を模倣すべきこと」という、一見すると矛盾したような宣長の主張を読み解く試みでした。

社会学者・宮台真司のキーワード、「感情の劣化」と「感染的模倣」を手がかりにして、両説を整合的に解釈しました。その結果、感情は劣化すること、劣化した感情は回復できること、そのためにはすぐれた感情の持ち主に感染して模倣すべきことを、宣長は述べているのだなと分かりました。

どんな主張にも、「で、それは何のために?」と目的を問う自由がありますが、今回は社会学の文脈を参照したことから、「システム化された近代世界に対抗するため」とか、「強靭なホームベースを形成するため」だとか、どちらかと言えば実用的な理由を挙げて答えています。

次回は反対に、「実用性は何かを評価する時の絶対の基準なのか?」を問題にします。実用性(あるいは生産性)を絶対の基準に据えることで、私たちはどんなに生きづらく、豊かさを失った生活を強いられているか?これを語るには社会学の見識だけでは不十分で、文学固有の視点が求められます。

まあ、何はともあれ次回が最終回です。せっかくですから、最終回もまた読んでください。毎回そうですが、読んで面白いものを書くつもりではおりますので。

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