恋と学問 第21夜、動く心を何が救うのか?
今夜は紫文要領の第2部「善悪と物の哀れ」の最終章、「物の哀れ詳論」(岩波文庫版95~107頁)を扱います。
この章で論じられていることは、大きく分ければ二つの項目になります。一つは「物の哀れの類型別分析」、もう一つは「儒仏論」です。本居宣長の議論を整理しながら、それぞれ考えてみたいと思います。
宣長は前回の「勧善懲悪批判」の流れから、源氏物語の主題は物の哀れを知らせることに尽きるのであって、これ以外の解釈は、すべて論述者の偏見(あるいは世俗的な価値観)にもとづく勝手な牽強付会であることを確認し、ふたたび物の哀れ論に入ります。
1.四季について
ありとあらゆる対象について、それに対応する物の哀れがあるということは、第19夜「もののあはれとエコノミー」ですでに見たとおりですが、宣長は改めて代表的なものとして次の三つを取り上げて紹介しています。
・ 家政についての物の哀れ
・ 四季についての物の哀れ
・ 恋愛についての物の哀れ
家政については第19夜で詳しく見ました。恋愛は、この後につづく第3部の主題です。なので、ここでは四季について考えてみましょう。
宣長は多くの場合、想定される質問に答える形で己の考えを示します。
言うまでもないことであっても、言わないと分からない人のために、きちんと説明してくれるのが宣長の親切心です。源氏物語から引用して、さまざまに具体例を挙げていますが、ここではそのうちのいくつかを抜き出してみます。
これらの引用について宣長は、「物の哀れを知らない人は何も感じないだろうが、悲しい時は虫も泣いているように聞こえ、妖艶な心持ちで空を見上げれば空まで妖艶に見えるのが、物の哀れを知る人の四季の感じかたである」(99頁)と述べています。
今のは、四季の景物に「わが心との近さ」を感じ取る事例でしたが、反対の事例もあります。
これは宣長が、「私がこれほどまで物思いに沈んでいるというのに、眼前に広がる風景は思い悩みがなさそうで羨ましい。そんな風に四季の景物を眺めるのも、物の哀れを知る人の感じかたである」(同頁)と述べているように、四季の景物に「わが心との隔たり」を感じ取る事例です。
在原業平の歌に、「月やあらぬ/春や昔の/春ならぬ/わが身ひとつは/もとの身にして」という名歌がありますが、移ろいゆく季節と変わらない心を対比させたこの歌も、同じ心を詠んだ歌と言って良いでしょう。
対象との親近感と疎隔感。いずれにせよ、動かされるのは「心」です。そして、ゆれ動く心を描くのは文学の仕事です。文学は人の心を探求する点で、哲学や宗教と変わるところはありません。その扱い方が異なるだけです。
その違いとは何か?
こうして議論は自然に「儒仏論」へと移るのでした。
2.ブッダとの対話
宣長の思想について多少の前提知識がある人なら、彼のことを、「から心」(直訳すると中国精神!)を批判して儒学や仏教を排斥した人、という風な理解で済ませていることが多いと思います。
果たしてそうでしょうか?「辞書に定義された宣長像」をいったん忘れて、本人の言葉に耳を傾けてみましょう。(長い引用になるので何回か休憩を挟みます。)
出家を決意した者の心境について述べています。妙に生々しい、実感のこもった語り口です。それもそのはず、じつは宣長、19才で菩提寺から五重相伝を受けるなど、その青年期においては浄土宗の宗旨をみずから熱心に学び、強い影響を受けていました。一度は仏教によって救われようとした人なのです。そんな宣長を「仏教を排斥した人」とかんたんに片づけるのは、そもそもの誤りなのです。
出家する際の覚悟につづき、仏の教えを説く側の心がまえと、聴く側の受け取りかたの対比について述べています。坊主は何も、理由もなく無情なことを語りはしません。亡き親を恋い慕う心が迷いの元になるのを知っているから、彼女たちの運命を哀れに思って、あえて無情に語っているのです。これは無情な人のセリフか?むしろ、いやというほど情を知る人だからこそ、無情を語るのではないのか?このように、宣長の仏教理解に偏狭なところは全くなく、いたって公平です。
宗教が人の心の問題を「解決」することに重きを置くのに対して、文学は心の問題を洩らさず「描写」することを目的にします。心の問題の解決を願う人々の祈りを文学は描きますが、しかし、それは解決策の提示を目指しているのではありません。あくまでも人間の心の動きを、どこまでも丁寧に、片寄ることなく、総体として描き出すことに主眼があるのです。
物を捨てるには、それを捨てる前に、それを確かに持っている必要があります。物の哀れを知らない人にとって、人の心がどんなに厄介なものかは想像すら出来ず、ましてや、それを捨ててしまいたくなる衝動など湧いて来ないものです。世を捨てて仏の道を選び取るという、一人の人生にとって非常に大きな決断をさせるのは、自身の心と真剣に向き合った心だけです。仏教徒のそうした心のありよう、すなわち、自身の心のありようと向き合う心のありようを、宣長は「物の哀れを知る人」の一類型として肯定しています。
ここで説かれていることは、宣長より150年前の人、沢庵禅師(1573-1646)の歌と響き合います。
心を完全に制御することは誰にも出来ない。心を制御するものもまた、心だからだ。心よ、心に心を許すな。これはたしかに厳しい教えです。しかし、教えが厳しいのはそれだけ手ごわい相手だと知っているからであり、手ごわい相手だと知っているのは、それだけ沢庵本人が自身の心と格闘したからでしょう。それだけ「自己を知る」を徹底したからでしょう。何と心は心のままにならぬものか。捨てがたいものか、と。
沢庵が解決の困難に思いを馳せ、ため息をついた同じ場所に、宣長は文学の描くべき一つの対象しか見ません。文学は貪欲に、「心の総体」を描き切ることを唯一の使命にして、その問題の解決には関わらないからです。
ただしこのことは、「文学には救いがない」ことを意味しません。文学における救済は、捨てられない心を強いて捨てさせたり、制御できない心を無理に制御させたりする道とは、別の道からやって来ます。
文学はあらゆる心の動き・働きを描き出し、善悪も損得も問わず、その存在を承認します。そうして心の多彩なありようを読者に知らせます。読者は読み終わると、眼前にひろがる景色が変わっていることに気づきます。心に限界を設けていたのは心自身だったことに気づきます。この世界は一人で感じていたより豊かだったことに気づいて感動するかもしれませんし、一人で思っていたより救いようがないものだったことに気づいて落胆するかもしれません。甘味にせよ、苦味にせよ、文学は「人生の味」の輪郭をはっきりさせるものです。この人生は味わい深いと悟らせること。それが文学の使命であり、宗教とは別の道からやって来る、心の救済なのです。
これにて第2部「善悪と物の哀れ」の読解を終わります。
それではまた。
おやすみなさい。
【以下、蛇足】
宗教と道徳と文学。いずれも人の心の探求を共通の対象としながら、全く異なる姿になったのは、アプローチ(接近方法)の違いのためでした。
宣長は儒学も仏教も排斥していません。過去に学者たちが、儒仏の説にもとづき牽強付会して、すなおな文学読解を曇らせてきたことは、しつこいくらい批判していますが、心の救済のためのアプローチとしての仏教それ自体を、否定するつもりなど毛頭なかったことは、今回で見たとおりです。
ただ、「宣長自身は仏教で救われなかった」とは言えるでしょう。そうでなかったら、19才までつづいた仏教への熱狂が冷めて、紫文要領と古事記伝が書かれることもなかったはずです。そんな宣長が文学に見出だした救済についても、今回のお話で触れることが出来ました。
さて、第2部は「善悪論」であったことから、だんだんと難解な話になってゆきましたが、次回からは心機一転、第3部の「恋愛論」に入ります。より具体的で面白い話題となりますから、どうぞ引き続きお付き合いください。
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