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映画感想 怪談(1965)

 今回は簡単感想です。

怪談(1965) (1)

 Netflixで映画を観ていたら、オススメ作品としてこの映画『怪談』が出てきた。
 ……ほう。ジャパニーズ・クラシック・ホラーか……。いわゆるJホラーと呼ばれるものの原典的なものを探れるかも知れない。そう思って視聴した。

 映画『怪談』。制作は1965年。小林正樹監督。原作小泉八雲。日本に古くから残されている4本の「怪談」を映画にした作品だ。
 まず、古い作品であるから、カメラのテクノロジーもやはり古いというのが難点で……。うまくピントが合っていなかったり、レンズの効果が大きくて画面の左右が歪んでしまっていたり。カメラがPANすると画面の左右が奇妙にゆがみ、そのせいなのかセットの奥行き感が感じられず、のっぺりして見えてしまう。
 この頃のカメラの精度だと、このあたりが限界か……。カメラがもっと良いものだったら、見応えある映像になっていたかも知れない。
 照明効果ももうちょっと深いコントラストを描けていれば……と思うのだが、おそらくこの時代に、そこまで感度の高いカメラはなかったのだろう。
 セットは非常に巨大。最初のエピソード『黒髪』から、平安時代の広大なお屋敷を見事に作り込んでいる。セットがあまりにも巨大なので、エピソードによってはセットとは感じさせないくらい堂々たる作りだ。

怪談(1965) (4)

 ただ不思議なところがあって、セットの奥の方が絵になっている。この絵は「マット画」といって、映画の世界では大昔から現代まで使われているものである。普通、こういうマット画が出てくるときというのは、実写と区別の付かないリアルな絵が描かれるもの。観客に窓の向こうにも現実の世界が広がっていると思わせるために作るものだ。
 この映画の背景画も、ようするに「マット画」なのだけど、これがあからさまに「絵画」という見せ方をしている。ぜんぜん写実的な絵を使っていない。
 すると、映像も不思議な感覚になる。第2話『雪女』ではセット内にリアルな自然の風景を作り出して、それだけ見ると本当にセットだろうかと思うくらいの作り込みなのだが、空に目を向けると、アニメの背景絵みたいな絵が出てくる。しかも、絵であることを隠していない。このギャップ感が、ある種の独特な舞台演劇風の雰囲気を作り出している。それがこの映画ならではの不思議さを感じさせる映像になっている。
 セットは堂々とした作りなのに、あからさまな背景絵が出てくる。この奇妙なバランスに、感覚を合わせるのにしばし時間が掛かってしまった。おかげで最初の2本はスッと頭に入ってこなかった。映画の世界に入り込むのに、少し時間がかかってしまった。

怪談(1965) (2)

第1話の主演・三國連太郎。若い!

怪談(1965) (7)

第2話の主演・仲代達矢。若い!

 それに、第1話『黒髪』は確かにホラーだったけれども、第2話『雪女』はホラーじゃない。これは「異類婚姻譚」であり、「見るな・言うなのタブー」のお話。
 第4話『茶碗の中』もホラーではない。せいぜい「不思議話」といったところ。タイトルに『怪談』と掲げているのに、ホラーじゃない話が4本中2本も入っているってどういうことだろうか……。

 最初の1話、2話がなかなか映画の中に入っていけず、いまいち面白さがわからなかったが、第3話『耳なし芳一』が見事だった。『耳なし芳一』で作品の質感がいきなり変わる感じがするし、内容を見ても1時間強と他作品より明らかに長い。力の入れ具合が明らかに違っていて、この『耳なし芳一』が一番やりたかった作品なんじゃないか……という気がした。

怪談(1965) (11)

 『耳なし芳一』は、芳一が海岸を前に平家物語の弾き語りをするシーンから始まる。
 そこから、源平の合戦シーンへと移る。相変わらずセット撮影なのだけど、時代がかった船に武者が乗っている姿がやたらと格好よくてゾクゾクする。船の作りも見事で、安徳天皇が乗っている船には、なんと船の上に神社が作られている。あのディテールの懲りようが凄い。
 源平の合戦シーンはかなり長い。鎧武者が船をぶつけ合い、斬り合いを重ねる姿が丹念に描かれている。義経や弁慶も登場するし、平家側のヒーローも登場する。その最後、敗戦を悟った平家が、安徳天皇を抱えたまま、海へと身投げしていく。そこまでの戦いを、格調高い映像と、見事な弾き語りで見せてくれる。琵琶法師の弾き語りがこんな良いものだとは……このワンシーンだけで映画を観る価値はあった。

怪談(1965) (13)

 それが終わってようやく『耳なし芳一』の本編へと入っていく。寺の住職が法会で留守にしている間、芳一はなんとなしに縁側に座って琵琶を弾く。すると、そこに人ならざる何かが姿を現す。
 芳一は客人が来たのだと思って対応するのだが、実は相手は幽霊。この近くに高貴なるお方が訪ねてまいっておるのだ、お前の琵琶を聞かせよ……というので手を引かれていくのだけど、その先は魑魅魍魎。
 映画は映像作品だから怨霊の姿を映像として示されているのだけど、よくよく考えたら芳一は盲目だからこれらの光景を見ていない。生きている人間についていったと思ったら、実は幽霊で……というのはかなり怖い話だ。
 それは映画の中でもフォローされていて、芳一はそこに生きている人間がいるのだと思って演奏をするのだが、後になって心配して様子を見に来た人が覗き込んでみると、芳一の周りにあるのは墓石と人魂。生きている人間なんぞどこにもおらず、そんな只中、芳一が取り憑かれたように琵琶を弾き続ける姿がなんとも不気味。

怪談(1965) (15)

 不気味だし、一方で神秘的な美しさで描かれている。芳一の妄想の世界では、舞台劇みたいにセットが組まれて、貴族の一同が整然と並んでいる。その姿が美しいし、常にドライアイスの白い煙が漂っている光景も美しい。
 やがて幻想が剥ぎ取られて、墓石の姿が現れるのだが、白い煙が渦を巻きながらスッと消えて、その後ザァと雨が降り始める。そのイメージが美しい。すべてセット撮影だが、いったいどのように処理をしたのだろうか。
 続いて芳一の全身にお経を書くのだが、耳にお経を書き忘れて……という展開があり、怨霊に耳をもぎ取られてしまうシーン。耳をもぎ取られ、大量出血する光景が生々しい痛々しさ。
 古典怪談だけど、なかなかの怖さがあったし、それにシーンの一つ一つが美しい。この一編だけ、明らかにクオリティが違っていて見事だった。

 映画『怪談』の全体を見ると、どうにもバランスが悪い。2本目『雪女』は怪談ではないし、第4話『茶碗の中』はお話が途中で終わっている。どうしてこんな話を採用したのだろう? と思うような一本。
 『黒髪』『雪女』がそれぞれ40分であるのに、『耳なし芳一』で突然1時間越え。その次の『茶碗の中』が30分で、しかも途中でお話が終わる。尺が足りなかったから、半端なエピソードを突っ込んだのだろうか? と勘ぐってしまう。『耳なし芳一』が見事だったから、いっそあの1本だけでよかったんじゃないか……と言う気がする。尺的に『耳なし芳一』だけで成立しちゃうし。
 無理に4本ものエピソードを突っ込んでしまったから、3時間の映画になってしまっている。果たしてこの映画に3時間も必要だったのか?
 これは……予算が出たらか作ってしまおう感覚だったのかな……。

 『耳なし芳一』はもっとも長いエピソードだったけれど、長くなってしまったのは冒頭に壇ノ浦の決戦を描き込んだから。よくよく考えたら、あの壇ノ浦決戦も長過ぎ。やっぱりバランスが悪い。
 『茶碗の中』だけど、主人公・関内お屋敷の外に飛び出すシーンがあり、そこだけでパッパッと3回も構図が切り替わって描かれる。どうしてあそこで3回もカメラワークを変えて描かれるのか、すぐにピンと来たけど、これは「せっかく作ったセットを見せないのはもったいないから」だ。
 せっかく作ったのだから見せたい……そういう作り手のエゴ的なものが全面に出てしまっている。『耳なし芳一』の壇ノ浦合戦にしてもなんであんなに長かったのかというと、「せっかく作ったから」が理由なんじゃないだろうか。他のエピソードにしても、「このシーン、なんでこんなに長く見せるんだろう?」と疑問に感じるシーンがあるが、やはり「せっかく作ったのだから」だろう。
 個々のエピソードを見ても、全体のエピソードを見てもいかんせんバランス悪く感じるのは、「せっかく作ったのだから見せたい」「せっかく作ったのだから切りたくない」という理由だったように感じられる。
 それだとエンタメとして成立しない。むしろそういうところこそ、思い切ってバツッと切ってしまったほうが良い。それができなかったことが、この作品のバランスの悪さだろう。

 映画『怪談』の制作費は3億円に対して、配給収入2億2500万円。宣伝費もあるはずだから、大赤字映画となった。この一作で、制作会社「文芸プロダクションにんじんくらぶ」は倒産。
 ただし評価は高く、第18回カンヌ国際映画祭審査員特別賞、ローマ国際映画祭監督賞、第38回アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、第38回キネマ旬報ベスト・テン第2位、第20回毎日映画コンクール 撮影賞、美術賞などを受賞した。
 映像の作り込みの凄みはあるのは間違いないが、エンタメ作品として弱かったのがこの作品の惜しいところ。映画はアートとしてもエンタメとしても両立しなければならない。その難しさを感じさせる1本だった。


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とらつぐみ
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