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映画感想 炎上

 今回視聴映画は1958年公開『炎上』。原作は三島由紀夫の小説『金閣寺』。1950年7月2日に寺の見習い僧が実際に金閣寺に火を付けた事件があり、その事件をヒントに描かれた小説である。
 実際の事件同様、主人公はどもりで、事件を起こした後、裏山で服毒、ナイフで腹を裂いて自殺しようとしていた。その若者がどうして金閣寺に火を点けたのか……その精神的過程を掘り起こした作品である。
 主演は市川雷蔵。市川雷蔵は23歳になった1954年、歌舞伎の世界から映画俳優として転身した。もともと歌舞伎界のスターで、大映所属俳優になっても最初からスター俳優で、デビュー映画からいきなり主演、しかもロケ地まで専用高級車での送迎という破格の待遇だった。あまりにも「期待されすぎた映画スター」だったので、『炎上』が制作される1958年までの4年の間に48本もの映画で主演をこなしていた。
 市川雷蔵といえば「時代劇スター」で、いつもは白塗りメイクを施した、キリッとした顔の超イケメン俳優。当時からも現代に至るまで、熱烈な女性ファンの多い俳優だ。そんな市川雷蔵が白塗りの時代劇メイクを脱ぎ捨てて、映画『炎上』では地味で目立たない、しかも“どもり”の若者を演じる。当時は市川雷蔵後援会が反対するほどの騒ぎになった。
 一方の市川雷蔵は時代劇のイケメン俳優というイメージを破りたいという意思があり、現代劇でしかも精神的に欠陥のある気弱な青年を演じることに並々ならぬ熱意を注いでいた。その甲斐あって、『炎上』は市川雷蔵の代表作と呼ばれる作品となる。

 では、あらすじを見ていこう。

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 お話は警察の取調室から始まる。
 被疑者は京都市の双円寺徒弟、小谷大学3年生。溝口吾市21歳。7月5日未明、驟閣寺に火を付けて、その裏山で自分の胸を刺した上に服毒自殺を図ろうとしていた。
 なぜ?
 刑事は追求するが、溝口後市は黙ったままだった。

市川崑 炎上 (11)

 お話は数年前に戻る。
 溝口吾市は一人、手紙を携えて双円寺を訪ねる。時代は戦争の只中で、人々が貧しい暮らしを強いられていた頃だった。お寺でも例外なく、日々の生活が精一杯だったし、徒弟が赤紙で招集されることもあった。
 溝口吾市が携えていた手紙には、その父である舞鶴市成生岬の小寺の僧侶、承道が心臓の病で死去したこと、それから息子を双円寺で引き取って欲しいという旨が書かれていた。
 双円寺老師・田山道詮は溝口吾市を哀れに思い、双円寺に引き取ることにした。

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 ところが溝口吾市は極度のどもりで、まともに人との交流ができない。お寺の仕事もおぼつかず、いつも一人きりで驟閣寺に閉じこもって掃除ばかりをしていた。
 間もなく母親の溝口あきが訪ねてきた。溝口吾市は母を軽蔑していた。溝口あきは父が在命だった頃、お寺の中に男を引き入れて不倫をし、しかも父が亡くなった後はお寺も畑もすべて人に売ってしまっていた。父を愛していた溝口吾市はそんな母が許せなかった。

 戦争が終わり、驟閣寺に多くの米兵が観光に訪れるようになっていた。双円寺ではその対応に毎日忙しく過ごしていた。
 そんなある日、溝口吾市は驟閣寺の側で米兵と女が言い合っている姿を目撃する。女は米兵の頬をはたき、驟閣寺の中に飛び込もうとする。溝口吾市は慌てて女を掴み、引き離そうとして、階段から突き落としてしまう。
 その数日後、女がやってきて「お寺の小僧が女を突き倒して流産させた」と怒鳴り込んできた。田山老師はお金を支払って解決し、それ以来溝口吾市を軽蔑しはじめるのだった。

 ここまでのお話が前半35分。
 今回のあらすじ紹介はここまで。お話がやや複雑なので、大雑把なストーリー解説ではフォローしきれない部分が多いので、ちょっと違う方法で掘り下げていく。

 まず映画について。
 監督が市川崑で、撮影監督が宮川一夫。どちらも画作りにこだわる巨匠だ。というだけあって、どのシーンも構図が見事に決まっている。どのカットを見ても一分の隙なしの、見事な画が次々と出てくる。文化財である驟閣寺(金閣寺のこと。金閣寺からクレームがあったため、名前が変えられた)が燃やされるまでを描いた作品に相応しい美学が貫かれている。

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 上はお寺の人達が集まっての食事シーン。人物の並び方が綺麗というのもあるけど、左奥の人が喋るとき、わざわざその一つ手前の人が頭を下げて、奥の人の顔が見えるようにしている。食べる所作でそれぞれの顔が被らないように演出されている。

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 最終的に燃やされることになる驟閣寺。「金閣寺」の名前は金閣寺管理者からクレームがあって使用できなかったために、「驟閣寺」と名前を改められている。
 映画中に出てくる驟閣寺は映画用に作られたセット。実際の金閣寺はもっとどっしりと大きく、しかも3階建て。あのスケールを映画中に再現できず、やや小ぶりな造りとなってしまっている。
 表面に金箔が貼られていないのは、当時の金閣寺もほとんど金箔が剥がれてしまっていたから。それでも焼け跡から金箔は残っていたらしいことはわかっていて、映画のラストでも夜空に金粉が巻き上がる光景が描かれている。

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 不思議な印象になるのが、回想シーンなどに使われているカットマッチ。その前のシーン、次のシーンとの間に何かしらで符合するものを置いて連続性を作る技法のことだが、この映画の場合、主人公の溝口吾市を中心において、周囲の光景がオーバーラップするという不思議な画を作っている。
 多分、私の想像だがこれは背景にスクリーンを置いて、あらかじめ撮っておいた映像を投射しているのではないだろうか(「スクリーン・プロセス」という)。
 こうした画面の一部のものを途中でオーバーラップさせて見せる手法は、どちらかといえばアニメ寄りの発想(1960年代のアニメでこの手法が使われていたかどうか知らないが)。元アニメーターの市川崑らしい見せ方といえるかも知れない。この手法によって、回想シーンに移り、戻ってくるまでを滑らかに表現している。

 そろそろストーリーを見ていこう。  映画『炎上』はお話が複雑というか、人物の描き方がやや複雑なので、そこで難しい作品になっている。今回は「あらすじ紹介」ではなく、それぞれの人物を掘り下げることで、映画のストーリーを説明していくという手法を採っていく。

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 まず主人公の溝口吾市。“どもり”であることに猛烈なコンプレクスを抱えていて、そのせいで他人とコミュニケーションが取れず、気が弱く友人もいない。いつも周りから“どもり”であることをからかわれていて、かといって力もないから逆襲ができない。
 それで前にいた学校では、海軍に入った上級生の綺麗なナイフに傷を入れていたりした。からかわれていたことに逆襲をしたいと思っていたけれど、そんな力もないから、「他人のものに傷を入れる」という小さなことで陰鬱なルサンチマンを地味に解消していた。そういう「みみっちい」男が主役である。

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 精神的に欠陥のある若者……といっても「なんの罪を犯さない清らかな若者」ではなく、相当にねじれて鬱屈している若者として描かれている。自分を中傷してくる周りの人達に対する怒りや恨みを抱えているけど、でも気弱だし薄弱だしで何もできないから、ひそかに他人のものに傷を入れて悦に浸る……そういう若者が溝口吾市だ。

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 そうした性格だからこそ、より清らかなもの、美しいものに対する憧れが猛烈に強かった。内面外面ともに清らなで美しいものがあれば、自分を中傷することもないだろう……もしかするとそんなふうに思い込んでいたのかも知れない。
 ねじれた性格は、美と聖性に対する猛烈な憧れの意識を作り上げていく。
 だからこそ溝口吾市はお寺の中で不倫をしていた母を許せなかった。不倫現場を目撃してしまったことで、その後もずっと母のことを「汚いもの」として軽蔑するようになっていく。
 しかも父が死んだ後、母は父のお寺を売ってしまい、それで溝口吾市はますます母親を許せなくなっていく。
 一方の父に対しては愛情と思い入れを抱いていた。父は自分の妻がお寺の中に男を連れ込んでいることを知っていても、それで怒ったりできないくらい気弱な性格で、溝口吾市は父に対して“同じもの”を感じていたし、それに父はいつも自分に対して味方になり守ってくれていた。
 その父が好きだったのが驟閣寺(金閣寺)だった。
「なあ吾市。一度驟閣を観につれていってやろう。近いうちにな。きっとや。京都のなだらかな山の懐に立っている驟閣ほど美しいものはこの世にない。父さんは、驟閣のことを考えただけで、この世の中の汚いことはみんな忘れてしまうんや」
 そう言われて以来、驟閣寺は溝口吾市の「美しいもの」「清らなもの」のシンボルとなった。父が死んでから、驟閣寺は父の姿が投影され、その想いは強くなっていく。やがて「美しいもの・清らかなもの」への憧れは驟閣寺をシンボルにして収斂していくことになる。
 しかし戦後、米兵が大挙してやってくるようになり、双円寺も「拝観料」でビジネスをはじめ、驟閣寺があっという間に戦後俗物に汚されていく様子が許せなくなっていく。

 さらにお話を掘り下げていく前に、溝口吾市周囲の人々についても掘り下げていこう。

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 老師・田山道詮。
 その登場シーン、部屋にこもって化粧水を丹念に自分の顔に刷り込もうとしている。これは何なのかというと、実は田山道詮は芸者を愛人として囲っていた。その伏線となるシーンである。

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 次に、お寺に乞食がやって来るシーン。田山老師は乞食を軽蔑の目で見て無視しようとするが、すぐ側に溝口吾市がいることに気付き、ハッとなって乞食に施しを与える。
 その場面を見た溝口吾市は、田山老師のしたことに感激し、尊敬と信頼の目を向ける。
 映画を観ている側には、田山老師が人が見ていることに気付いて慌てて施しをはじめた経緯がわかるが、そこに気付いていない溝口吾市が田山老師の人間性に気付かず、無邪気に尊敬しはじめる……ということがわかるように作られている。
 このシーン以来、溝口吾市は田山老師を「特別な人格者」と思い込むようになる。

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 間もなく溝口吾市は、町で田山老師が女を連れている場面に遭遇してしまう。
 田山道詮老師の人物像が複雑であるのは、溝口吾市に目撃されてしまった瞬間、憤慨するが、その後反省し、「自分には住職は向いていないんじゃないか」と語るようになる。過ちを犯していることに対する後ろめたさを抱える、人間的なところが描かれている。
 田山老師ははじめのほうこそ溝口吾市の存在を気にして、「良い姿」を見せようとするが、やがて俗物僧侶の面が見えてきてしまう。溝口吾市も次第に田山老師の俗物の面に気付きはじめるが、最初の頃の乞食に施しをする姿が頭にあるから、「どっちが本当の田山老師なのだろうか」と迷いはじめる。溝口吾市はどうしても最初に見た「聖職者」としての田山老師の姿が忘れられず、「きっと何かの間違いだ」とその人間性を試すようになっていく。
 映画の後半、田山道詮老師は愛人との関係を切ることができず、ついには妊娠させてしまう。その直後、驟閣寺が炎上する姿を見て「仏の裁きじゃ」と落胆する。
 溝口吾市が逮捕された後、田山老師は方々を回って托鉢するようになったが、それは自分のしてきたことに対する戒めであった。

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 次に双円寺の副司。副司は溝口吾市を引き取るという話が出たときから、まず「気に入らない」という反応を示す。というのも、副司は自分の息子を双円寺の徒弟にして、ゆくゆくは住職にするつもりだった。そこに、溝口吾市が入ってきたから、不満に感じていた。だから溝口吾市が実は“どもり”とわかったとき、これみよがしに厳しく当たる。
 戦後は驟閣寺に見物にやってくる人が一杯出てきたので、拝観料ビジネスを積極的に推し進める。俗物的な僧侶の代表格みたいな存在になっている。
 ところが、副司は「息子を住職にしたい」という思いは映画後半にはもうなくしてしまっていた。副司の息子は町で喫茶店を経営するようになっていて、溝口吾市に対する敵愾心を喪っていた。確かに俗っぽさはあるけれども、それは双円寺と驟閣寺を維持するためにやむなくという面があったからだった。戦時中、寺でも貧しい暮らしを強いられていたからこそ、こんな時に儲けて取り戻さなくては……という考えがあったからだった。
 副司にも人間的な複雑さが描かれているが、やはり溝口吾市は驟閣寺を儲けの道具として使うことそのものが許せず、副司との関係は最後まで良くならない。

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 吾市の母、溝口あきはお寺に男を連れ込んで不倫していたことで、息子からの信頼を失う。しかし溝口あきは自分のしたことに深く反省しており、以降は息子のためにひたすら尽くすようになっている。確かに夫の死去、お寺を人に手渡してしまったが、夫が病気だった頃から収入が途絶えて借金だらけになっていたので、引き払わないと生活ができないという事情があった。
 さらに戦後で生きていくにも厳しい時代が来てしまったという背景があって、どもりで普通の生活もまっとうに送れない息子を案じて、どうにか生活が安定する寺の住職にしたいと考えていた。これも母親としての想いがあっての行動だった。「不倫」という間違いは犯すものの、実はその後は「良き母」として、息子の将来を考えて懸命に尽くそうとする姿が描かれていた。
 しかし潔癖な溝口吾市は母親が不倫していた時点でもう許せなかったし、父の寺を売ってしまったことで母親に対する思いが確定していて、それから変えようとはしなかった。溝口吾市の強情さが、親子関係を完全なる破綻に導いてしまう。

 ちょっと番外編。
 ある場面で、驟閣寺の前で米兵と女が言い合いをする場面がある。戦後間もないこの頃、女達は米兵の気を引こうとその周りに群がり集まってきて、そのまま関係をもって妊娠しちゃう人は多かったし、さらに米兵に付いていってアメリカまで行ってしまう人も多かった。……現地に着いたら妻がいることも知らずに。
(余談。この頃、若い女は米兵に対する警戒心がなく、公園に米兵が歩いていると周りに女の子がわーっと集まってくるような状況だった。それで米兵によるレイプ事件が山ほど起きていた。その中で米兵の子を妊娠しちゃったり、アメリカまでついて行っちゃう女の子も多かった。そういった女の子の大抵は、現地に付くと実はすでに奥さんがいることを知らされて追い出され、しかも当時のアメリカは猛烈な日本人差別があってまともな生活も送れなかった。あれから何十年も経つけれど、日本人のアメリカ人コンプレクスはあまり解消されておらず、「日本に行ってナンパしたら簡単にセックスできる」とアメリカ人は語る)
 そういった戦後間もない時代の世相を反映した描写なのだが、米兵は言い寄ってくる女を妊娠させてしまったのだろう。しかし米兵は女と結婚するつもりもなければ、子供を引き取るつもりもない。それで言い合いの喧嘩になっていた……という経緯が想像できる。

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 その後、溝口吾市と女がつかみ合いになり、驟閣寺の階段から意図せず突き落としてしまう。上はその瞬間の画だ。米兵はポケットに手を入れて、悠然と状況を見ているだけ。この一枚の画で、米兵がどういう気持ちでこの場面を見ていたかがわかるだろう。
 つかみ合いの乱闘が終わった後、米兵は大喜びで溝口吾市にタバコをプレゼントして去って行く。何を喜んだかというと、今のショックでお腹の子が流産したことがわかったからだ。「流産させてくれてありがとうね」とタバコをプレゼントしたわけだ。
 溝口吾市はすぐにこの一件を田山老師に報告しようとするが、しかしどもりだからうまく伝えられず。田山老師は「タバコをいただいたんやろ。ご苦労やった」と勘違いして、部屋の中へ入っていってしまう。
 それから間もなく、「外人の兵隊さんと一緒に驟閣寺に見物に来たとき、お寺の小僧が外人の兵隊におべっかをつかい、女を突き倒したんで、流産」させた……と話がすり替わって、田山老師はこの話を信じ、溝口吾市に冷たく対応するようになっていく。それぞれの勘違いと、どもりゆえに事情をうまく説明できないが故に、それぞれの関係性は冷え込んでいく。

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 『炎上』の登場人物はどれも人間的な弱さもあり過ちを犯すし、その過ちに対する迷いも抱いたりする。それが作品を複雑にしている。
 そんな中、ほとんど天使ともいうべき若者もいる。溝口と同じく寺の徒弟・鶴川だ。鶴川は溝口のどもりを一切気にしなかったし、いつも溝口の味方になってくれた。「善性」そのもののような若者だ。鶴川と溝口吾市の友情が、もう一つの精神的支柱になっていた。
 しかし、映画の前半が終わったところで、鶴川は姿を消してしまう。東京の母が危篤という話を聞いて急いで寺を飛び出したところで、トラックにはねられ死んだという(このあたり、映画で描写されず台詞だけの説明なのが惜しい)。
 鶴川という友人を喪い、溝口吾市の精神は危うい状態に晒されるようになっていく。溝口吾市の味方になって、話をまともに聞いてくれて、すべてを肯定してくれる友人を喪ってしまった。それが溝口吾市の孤独感を深めていくことになる。

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 そこに現れるのが仲代達矢演じる戸刈だ。戸刈は内反足つまり“かたわ”という障害を抱えているのだが、それを気にしないどころか、内反足を武器にしてまわりを意のままに操ろうとする男だった。
 障害を持っているのに気にせず、堂々として、しかも障害があることを利用してしまう。溝口吾市にとって戸刈はヒーローに映り、憧れの対象になっていく。
 しかし、この戸刈は悪魔だ。戸刈はお寺経営の俗物っぷりを非難するし、僧侶達がみんな愛人を抱えていることも非難する。鶴川と正反対の属性を持った男だ。でも溝口吾市は障害を気にもしない戸刈に憧れて、友情を深めてしまう。
 溝口吾市はこの戸刈の言うことを聞いて信頼するうちに、お寺の人々に対する気持ちも揺らぎはじめるし、戸刈の言うとおりに住職を「試そう」ともしてしまう。それがかえって田山老師との関係を悪化させていってしまう。
 ここでどうして溝口吾市が田山老師を試そうとしたのかというと、心のどこかで田山老師が以前のように自分に感心を向けてくれる、振り向いてくれるんじゃないか……という想いがあったからだ。あの「優しい田山老師」に戻ってくれるんじゃないか……。田山老師に、オイディプス・コンプレクス的な想いを抱いていた。しかし田山老師も人間だから、戸刈の言うとおりにした結果、関係性はより悪化してしまう。
 そんな無敵の存在に思えていた戸刈も、あるとき部屋に上がり込んだ女に罵倒されねじ伏せられている姿を見て、溝口吾市は一瞬にして幻滅し、彼の元から去ってしまう。戸刈は別にスーパーヒーローでもなかった。
 溝口と戸刈の関係は友情ではない。崇拝する相手と信者の関係だ。だから戸刈が女にねじ伏せられている姿を見て、溝口は助けようともしない。「崇拝する相手じゃなかった」と気付いて、スッとその場から去るだけだった。

 溝口吾市は一度、人の温もりをもとめて遊郭へ行くが、そこで女を抱けるほどの度胸もない。溝口吾市は「もしも驟閣寺が燃えたらどう思うか」と遊女に尋ねるが、遊女はどうもしない、と。驟閣寺にそこまでの関心を向けている人は、誰もいなかった。
 溝口吾市は自分の精神的支柱が、人々の意識の中ではその程度の存在であることを知る。

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 溝口吾市はどんどん孤独を深めていく。
 父を喪い、友人の鶴川を喪い、ヒーローだと思った戸刈には幻滅し、父のように尊敬していた田山老師との関係は破綻し、母との関係はすでに壊れていたが「アンタなんか生むんじゃなかった」と言い残して去って行く母の言葉に強烈なショックを受ける。
 味方になってくれる人はいない。自分を理解してくれる人はいない。尊厳もない。自分が何のために生きて存在しているのかもわからない……。自分という存在が、どこまでも薄く軽くなっていく感覚があった。
 もはや溝口の精神的支柱は驟閣寺(金閣寺)だけ。その驟閣寺も拝観料ビジネスでどんどん俗世界に穢れようとしていく。
 最後の場面で善海和尚という人物がやってきて、溝口吾市は「私の本心を見抜いてください!」と訴える。善海和尚はごまかすような笑いを浮かべて「見抜く必要はない。何もわからないのが一番いい考えだ」と返す。会ったばかりの若者にいきなりこう言われたら、こう返すのは仕方ないことだが、溝口吾市はことさら「誰も自分をわかってくれない。味方になってくれない」と思い込むようになる。
 それで溝口吾市は唯一残った「清らかなもの」のシンボルである驟閣寺が、俗物で穢れきって、戸刈の言うように変わり果ててしまう前に、建物と一緒に「心中」しようと考える。
 ところが火を点けてみると、あまりにの熱さに耐えきれず、思わず燃えあがる驟閣寺から飛び出してしまい、生き残ってしまう。死ねず逃げ出してしまうのは、溝口がどこまでも弱い男だからだ。

 『炎上』を見終えた後、私の気持ちは重かった。孤独で追い詰められていく人間の心理を、どこまでも深くえぐり込むように描いている作品だった。
 私が『炎上』を見て連想したのは、2008年に起きた「秋葉原通り魔事件」だ。2008年6月8日、秋葉原の大通りに白昼トラックが突撃し、さらに通り行く人々を容赦なくナイフで襲いかかったというあの事件だ。
 他にも2019年の青葉真司による『京都アニメーション放火殺人事件』。少し遡るが、海外の事件で1980年、マーク・チャップマンによる『ジョン・レノン殺害事件』……。いずれの事件も、もともとは殺した対象のことが好きだった。というか「崇拝」していた。その崇拝が、いつかの段階で「憎悪」と「殺意」へと変わっていく。そういえば『炎上』は映画『ジョン・レノンを撃った男』に似通っているところがある。

 「秋葉原通り魔事件」と『炎上』に関連を感じたのは、『炎上』が若者の精神的支柱が驟閣寺(金閣寺)に収斂していくのに対し、「秋葉原通り魔事件」は秋葉原という場所自体が犯人である加藤智大にとっての精神的支柱・聖域だったからだ。
 アニメが描く世界は、私たちにとって不可侵の世界。「2次元の世界」とはよく言うが、端境の向こう側の世界だらか、つまりは「聖域」である。その向こうの世界の人々が外界から汚されることは決してないから、いわばアニメキャラクターは精霊か神に相当する存在だ。アニメファンはクリエイターの生活を無視して、アニメキャラが俗物的な感覚に毒されていくことを許さないのは、俗物的なもので聖域が汚されることを嫌うからだ。
(アニメファンがアニメを作るクリエイターの生活に関する問題に気付きはじめたのは、ここ10年くらいでやっと……のものだ。その以前は、作り手側がきちんと利益を出そうとする施策を「○○商法」と呼んで軽蔑していた。今でもそう表現するアニメファンはいる。自分とアニメキャラクターとの関係性の清らかさこそがアニメファンにとって大事なのであって、その後ろで作り手が困窮していることなんて「知ったこっちゃない」という人々がほとんどだった。アニメグッズを買っても、それはアニメキャラと自分との関係性を作るために大切なのであって、その背景に作り手の利益が……という話になると、途端に「拝金主義だ」と軽蔑する。アニメキャラにお金を出しているのであって、作り手にお金を出している感覚がまずなかった。アニメファンの多くはそういうお金という俗っぽい考えに対して異様なほど潔癖だったし、利己的に思考していた。実際には作り手が困窮していることは知識としてあったが、それとアニメビジネスの話と関連がある、繋がっているものという意識を持っているアニメファンがまったくいなかった。こういうのが本当に10年ほど前の認識だった。今もこういう認識を持ち得ず、無邪気に「作り手ではなくキャラクターにお金を出している」というつもりのアニメユーザーは多い)

 なぜアニメファンがアイドルアニメに夢中になるのか……それは「信仰心」から来ている。アニメ界隈でいう「信仰」は、ユーザー達にとって半ば冗談めかして使われる言葉だが、アイドルアニメで日々の活力を得て、行動の規範とし、しかも定期的にイベントへ「拝観」しに行く……これはれっきとした「信仰」だ。
 いや、私は宗教的な行動を取っていることを非難するつもりはない。色んな人々の行動を観察してわかったことは、人間には「宗教的なもの」が精神生活を送る上で必要だというのが私の結論だからだ。
 日本には古くから「神道」への信仰があるのだが、その内実を日本人自身よく理解していない。神道には神もなく、開祖もなく、聖域もない。世界的に見てユニークな宗教で、その存在の淡い感覚は、日本人にとっても曖昧に映るものだった。だから日本は仏教を取り入れて、生活の局面で神道と仏教をわけて信仰するという形を採った。
 でも生きていく上で「宗教的なるもの」は、社会生活を過ごす上でどうしても必要なのだ。宗教的なるものを持っていないと、何をもって日々の糧にするのか、そして価値観の規範にするべきなのか、それを見いだすことが困難だから。
 多くの日本人は、自分は「無宗教だ」と考えて、聞かれるとそのように答える人は実際多い。しかし何もかも理性的な意識で、何ものに気持ちを依存させず精神生活を営むことができるのか……というとそんなことはできない。できる人はほぼいない。できないからパチンコに依存したり、奇妙な新興宗教にのめり込んだり、アニメやゲームにのめり込んだりする。無宗教であり続けるのは、実はそれだけ不安定になるから、そのぶん「心を置く」何かを必要とするのである。
 そこで出てくるのがアニメキャラクター達だ。アニメキャラクター達は私たちにとって端境の向こう側の存在。神や仏の代わりというわけだ。現代ではこういったアニメキャラクターを精神的支柱にしてしまっている人はすでにいる。どうしてそうするのかというと、既に書いた通り日本人に宗教がないからだ。
 宗教がないから宗教的支柱が必要ないのか……というとそんなわけはなく、必ず代わるものが必要になる。そこで若者達は消費文化に注目した。これがアニメやアイドルに若者が熱中する答えだと私は考えた。

 人間にとって耐えがたいことは、「孤独」に陥ることだ。人間は自分自身だけで自分が何者なのか、規定することができない。普通の人にはできない。社会があって、その社会と自分という対比で、あるいはその社会から与えられる価値観でもってようやく自分がどういう人間なのかを認識し、それをその人間個人のアイデンティティとする。自分はみんなと較べてどの程度背が高いのか、どの程度頭が良いのか、どの程度美形なのか……。そうしたものは自分自身で考えて「理解」するものではなく、社会的に価値観を与えられてようやく認識できるものなのである。
 すると人間が一番恐れるのは、周囲の人々から排除されることである。「社会を喪う」ことが怖い。「村八分」が怖い。排除されると自分が何者なのかがわからない。自分が誰なのかがわからない。こんなふうにアイデンティティに揺らぎが生じると、あっという間に社会倫理も瓦解していく。
 人は自分の存在を軽く見られることを最も嫌う。不当に低く見積もられ、誰からも敬意も向けられないどころか、声を聞いてもらえない、存在を認識してもらえない……。自分の意識とまったく合わない価値観を一方的に押しつけられること……つまり自分の特性を揶揄されたり中傷されたりといったことを屈辱的だと考える。そうした状況に晒されると、人は社会に対して猛烈な怒りと敵愾心を持つようになり、しかもこの怒りの感情はその場その場で解消されず、少しずつ蓄積される性質を持つ。それがその人の精神で耐えがたいほどに蓄積された瞬間、爆発する。
 ……まあ、他人を非難するときは、「やりすぎるな」という話だ。なぜか、というと自分を守るためである。最悪の事態で逆襲される恐れがあるなら、余計なことは言わないほうがいい。

 「秋葉原通り魔事件」を引き起こした加藤智大がどんな青春期を通ってきたのかわからないが、おそらくは『炎上』の溝口吾市のような体験をどこかでしたのだろう。アニメが好きで、アニメ世界を体現する秋葉原を聖域のように考えていたが、しかし長年溜め込んだ恨みと怒りが聖域へ逆流していった。精神を救ってくれるはずなのに、なぜ救ってくれなかったのか……と。「神よ、私を裏切ったのか!」と。
 この話は溝口吾市や加藤智大といった、「特別な誰か」というだけの話をしているのではない。私たちのほとんどが同じような危うさを持っている。
 何を根拠にしているかというと、いまアニメが好きという人が非常に多くなったからだ。これはなぜだろうか? 単純に、アニメが他コンテンツより高いクオリティを持っていることを多数派の人が気付いたから……というのもある。単純に大きなメディア、つまりテレビが勝手につまらなくなったから、アニメが浮かび上がってきた、というのもある。「他がつまらなくなったから」という理由でアニメを見始めた……というだけの人は普通の人だ。
 はっきり言うが、「普通の人」というのはクオリティ問題……つまりその絵が美しいかどうかという美的基準なんぞ持っていない。普通の人が普通の状態で、アニメという虚構100%の世界に気持ちを預けたりもしない。ただの暇つぶしだ。だいたい日常が充足しているような人が、アニメという異世界を熱心に見ようなんぞ思わない。どうしてこれだけの規模で人々がアニメを見るようになったのかというと、みんなどこかしらに、溝口吾市や加藤智大的な心理があるからだ。みんな「アニメの世界」という「聖域」をどこかに求めているから。それだけ私たちの心理は日常的に不安定な状態に晒されているからだ。社会が若者を繋ぎ止めるほどの強力な精神的支柱として機能していないからだ。
 現代の社会に精神的支柱となるものがないから、この状態でどこかアイデンティティの危機に晒されると、私たちは容易に爆破する危険性をみんな持ってしまっている。
 もう一つの根拠は、いわゆる「上級国民」と呼ばれる存在へのルサンチマンが非常に強くなっていること。どうして上級国民へのルサンチマンが強くなっているかというと、多くの人が自分の今の立場に不安を感じていること、上級国民と呼ばれる人々の地位にはどうしても辿り着くことができないという苛立ち。そういうものにたいする鬱屈が強烈になり、それが「アンセム」と言っていいほど今世代共通の合い言葉になっている。自分が置かれている立場への不満と鬱屈がそれだけ高まり、その不満と鬱屈が全世代にとって「共有語」になっていることが、現代人が心理が相当に危ういことの証拠となっている。

 『炎上』は1958年の映画……今から70年も前の映画だが、ある気弱な若者が社会性を喪い、絶望した思いが凶行へと駆り立てていく過程を克明に描いていた。このテーマは70年前という時代感だけではなく、現代も同じように語れるものだった。つまり、日本人はその時代からたいして変わっていない。進歩もしていない。かつて起きた事件の内面を掘り下げられることはなく、共有されることはなく……『炎上』で描かれたテーマが「過去のもの」になっていなかった。それがなんとも恐ろしく感じられた。

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 実は私がこの作品を見て、なんとも居心地悪く感じながら見ていた理由がもう一つある。私はどもりではないが、異常なほど滑舌が悪いのだ。自分の声を録音して、自分で聞いても何を言っているかさっぱりわからないレベルだ(だからこうやってブログで書いているようなことを、動画で語ることができない)。当然、コミュニケーションにも支障が出てしまい、私がどんなに喋っても相手に伝わるのはごく数パーセント。だいたいの相手は苛々し始めて、「お前はこう思っているんだろ」とまったく的外れな意見を押しつけられ、話が終わってしまうことがよくある。
 そんなこと言ってねぇ……そう思っても異常なほど滑舌が悪いせいで是正すらできない。生来から気弱な性質だから、怒ることもできない。喧嘩になりそうだったら、あっさり負けを認めて引っ込める。喋れないから喧嘩になればなるほど私が無様になることは目に見えているからだ。
(すると相手は自分の正義が勝ったと思い込む……違うんだけどなぁと思いながらも、私はとにかくも喋れないのでなにも是正しない)
 だから私は、いつも周りから自分のことを誰も理解してくれない、という感覚を持っていた。学生時代を通じて、私は友人を同時に5人以上いたことはないし、成人して以降は現在に至るも友人0人だ。普段から言葉なるものをほとんど発していない。
 「喋ることができない」というのは、これを読んでいる人には想像できないレベルで孤独になるのだ。

 そういった青春期を過ごしてしまったから、私はこうやって書く能力が身についた。でもこうやって書いていると気付くが、ごく普通の人は、3行以上の活字も読まない……という事実だった。私のかつての友人の中で、私が書いているものを読んだ人はただの一人もいなかったのだ。だから私は最後まで「よくわらかない奴」だった。
 私みたいに言語能力が全くなく、喋ろうとしてもそれで周りからからかわれるような状態が続くと、本当に全く喋らなくなるし、極力喋らずに過ごそうと考えるようになる。そうした社会との関連性が弱い状態で中傷されたり揶揄され続けたりすると、実際に鬱屈し、周りの社会に対してルサンチマンを抱くようになる。
(ここ十年くらいは、そもそも周りのことなんて「どーでもいい」に意識が変わって気にもしなくなったけど)
 溝口吾市が上級生のナイフに傷つけるという、みみっちい逆襲をしている場面を見ると、私自身にも似たようなことをした経験があるものだから、次第に胃がチクチク痛くなるような気がした。溝口吾市は自分によく似ている……と思ったくらいだった。そういったわけで、私は溝口吾市になんともいえない共感を抱きながら、映画を観ていたわけである。

  Amazon Prime Videoの感想文をいくつか読んでみると、多くの人が「わからない」「理解できない」「共感できない」という意見を残していた。ということは、それだけ多くの人が溝口吾市のような立場に陥ることはなく、幸せに過ごしている……ということなのだろう。だったら、この後もわからないままのほうがいい。むしろ私のように感情を込めて見ると、逆につらくて見ていられなくなる。
 そもそも『炎上』の主人公、溝口吾市は感情移入しづらい人物として描かれている。上級生のナイフを傷づけるという行為もそうだし、改心して自分に尽くしてくれている母親を拒絶し続けるという描写も、見ていて共感できるかというと、できない。むしろイライラする。
 もしも溝口吾市が善の化身で、まわりが悪党ばかりで不当な被害にあい続けるという話だったら、「かわいそう」という憐憫の思いから共感するだろう。でも『炎上』では溝口吾市をそういう善性の人間としては描いていない。みみっちい逆襲しかできないし、他人に情を強情に突き放すし、妙に潔癖なところがあって驟閣寺を崇拝しているし、そのくせ自分の悪事を正当化しようとする。はっきり言えばクソみたいな小男だ。こんな人間に共感できるわけがない。社会との接点を持てなかったから、精神が幼稚なままで止まっているのだ。そういうところまで描くところに、『炎上』の人間描写にリアリティがある。わざと共感できないように描いている。こういう冷淡な描き方が『炎上』の凄いところだ。
(こういう共感を排除するドライな人間の描き方は、脚本家の和田夏十の方向性らしい)

 では「わからない」という人々は『炎上』という映画とどのように接するべきなのか。まず映像の良さ、ビジュアルの格好良さで見る。市川崑×宮川一夫のコンビが描き出す、耽美な映像で作品を見るのもいいだろう。
 もう一つはこの映画をある種の教訓話にして、現実にこういった事件を起こさないために自分自身は普段からどう振る舞うべきか……それを考えながら見るといいだろう。そうしたシミュレーションとしてもよくできた作品であるから。


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