【追悼】【再掲】読書感想文 マンガの歴史/みなもと太郎
どんなものでも「ある日突然、何もないところから生まれた」なんてあるわけがなく、漫画も当然ながら誕生までに様々な経緯があり、その文化が発達するまで様々なドラマ、事件、トラブル、葛藤そのほか諸々を経験してようやく今に至っている。
本書はその漫画を一つの歴史をとして捉えようとした教科書である。
漫画の起源として考えられるのは紀元8世紀ごろ、奈良時代に成立した絵巻物がある。絵巻物は長大な紙、あるいは絹などの布を使い、絵で物語の変化、経緯を表現した芸術作品あるいは芸術形式を指す。
絵巻物は大陸から伝来したもの……と思われがちだが、実は絵巻物に相当する文化は大陸にもそのほかの外国にもなかなかない。完全に日本のみで生まれ、発達した文化であった。
17世紀頃、岩佐又兵衛が描いた『山中常磐物語』という作品がある。この作品では人が殺されるシーンになると背景にある木々をゴッホの絵のように燃え上がらせたり、また主人公の母親が息絶えるシーンでは木々をしおれさせたりしている。登場人物の感情を背景に代弁させる、という漫画的な表現がすでにこの作品の中で試みられている。
大塚英志は絵巻物の絵を「フレームで区切って現代漫画風のコマ割りに並べてみる」という試みを行ってみたが、すると何の問題もなく、絵巻物を現代の漫画と同じように読むことができた。絵巻物が漫画に近い文化であった、ということがここからも見て取れる。
チャールズ・ワーグマン作。『ジャパン・パンチ』1862年。
しかし絵巻物の系譜はすぐに漫画に取って代わられたというわけではなかった。
1862年、チャールズ・ワーグマン(英1832~1891)が日本にやってきて風刺漫画『ジャパン・パンチ』を出版。
『パンチ』とは1841年にイギリスで創刊された風刺漫画雑誌のことである。世の中に起きている事件、出来事を漫画風の絵にして表現した雑誌で、『パンチ』の名前はイギリスの大衆に根付いていた人形芝居『パンチとジュディ』の名前にあやかって名付けられた。『パンチ』は2002年に休刊してしまったが、非常に長い間歴史を持った雑誌だったと言えよう。
『ジャパン・パンチ』とはいわば、この日本版ともいうべき雑誌であった。この『ジャパン・パンチ』を描いていたチャールズ・ワーグマンの下に次第に弟子が集まるようになり、やがて『パンチ』風の絵は訛って「ポンチ絵」と呼ぶようになった。
「ポンチ絵」という呼び名について現代では語感のせいか誤解があるが、これはもともとは「パンチ風の絵」という意味である。
ちなみにチャールズ・ワーグマンの弟子から日本初の西洋画家である五姓田義松、高橋由一といった画家も生まれており、漫画のみならず、日本絵画史という見地から見ても重要人物である。
高橋由一『豆腐』
チャールズ・ワーグマンの系譜は日本においては「ポンチ絵」として広まったし、日本にやって来る西洋人、ジョルジュ・ビゴーやフランク・A・ナンキベルといった人たちにも受け継がれていった。そういった西洋人に日本人の弟子がつき、ポンチ絵を学んでいった。
しかしナンキベルは自分のところに弟子入りしにくる日本人をいぶかしく思っていた。というのも、ナンキベルは浮世絵に感激し、強い影響を受けてポンチ絵を描いているわけであって、ポンチ絵の起源は日本。なぜ日本人が自分のところにポンチ絵を学びに来るのか……と。
浮世絵はその末期の頃には大衆文化の「浮世絵」ではなく、純粋なアートとしての「新版画」へと変貌していき、その系譜は漫画には繋がっていなかった。が、浮世絵はいったん西洋に渡り、そこで西洋人に影響を与え、再び日本に戻ってきて「ポンチ絵」となり、間もなく「漫画」へと変わっていくのである。
日本人も知りもしないし想像もしないところで、歴史は連なっていたのである。
ロートレック作。ポスター『ムーラン・ルージュのラ・グリュ』1891年。当時フランスで流行していた日本芸術の影響を受け、主線が強調されている。
少し本題と逸れるが、面白い画像を見つけたので貼っておこう。画像は『英国人の軽信性あるいは見えざる幽霊』という作品で1762年に掲載された。
ロンドンの下宿屋の一幕で、娘が幽霊に取り憑かれたと主張する女主人と、それを疑って調べて回る男たちと、その一方で霊の存在を信じようとする人々との言い合いが描かれている。注目すべきは台詞に吹き出しのような枠線が描かれていること。浮世絵には吹き出しはなかった。
1891年(明治24年)、『時事新報』において今泉一瓢が「ポンチ絵」に古くから日本で使われていた言葉「漫画」を当てはめる。「漫画」と呼ばれるものの歴史はここから始まっている。またコマ割りによる物語進行を初めて表現したのも、今泉一瓢である。
※ 時事新報 後の毎日新聞。始めて漫画を掲載した新聞でもある。
※ 「漫画」という言葉は1798年の山東京伝の『四時交加』が初出とされる。ただし、現代人の言う「漫画」とは違うものを指している。
ところで、この頃の言葉に「連続漫画」というものがあった。当時は漫画は「1コマ」が主流だったので、2コマ以上使った漫画を「連続漫画」と呼んでいた。この時代でも連続漫画といえば主流は2個まで、3コマ以上もある漫画は珍しかった。
また当時の漫画は大人向けであった。漫画が描いていたのは事件や政治、市井の人間模様といった「風刺」が中心で、ストーリーやキャラクターといったものがなかった。
そこで1923年(大正12年)『アサヒグラフ』という雑誌でエポックな漫画が生まれる。『正チャンの冒険』だ。正チャンという少年が相棒のリスとともに、世界を冒険する物語である。ストーリーとキャラクターを持った初めての漫画がここに生まれる。
ところで『正チャンの冒険』はベルギーのエルジェが描いた『タンタンの冒険』とストーリー、キャラクターともによく似ている。そこで『正チャンの冒険』は『タンタンの冒険』をパクった……と思っている人が非常に多いが、『正チャンの冒険』は『タンタンの冒険』よりも6年早い。『タンタンの冒険』は1929年だ。
ちょっとでも似た作品を見つけると条件反射的に「パクりだ!!」と大騒ぎしがちな人は気をつけよう。
もう一つ、漫画の源流になった文化がある。それは「紙芝居」である。
紙芝居という文化も、日本特有のものである。おそらく明治頃の生まれで、物語を絵を1枚1枚めくりつつ、語りで聞かせる形式の作品のことである。
紙芝居には「平絵」と「立絵」の2種類があった。「平絵」とは一枚絵を見せて物語を表現する手法で、「立絵」はキャラクターの立っている姿を棒に貼り付け、簡単な動きを付けて表現していた。現代のテキストアドベンチャーの源流は間違いなくこの立絵紙芝居から来ている。
この紙芝居の系譜がどうやって漫画に繋がったか……それは後ほど語ろう。
1941年(昭和16年)太平洋戦争(大東亜戦争)勃発。日本への石油供給が停止され、抗議としてのアメリカ戦が始まる。これを契機に日本に深刻な物資不足が始まる。
『のらくろ』を掲載していた『少年倶楽部』は最盛期には400ページもあったが、最終的には32ページにまで減らされる。『のらくろ』も当時の「不謹慎狩り」の袋叩きにあい、姿を消す。この期間、漫画、アニメ両面に深刻なダメージを受けることになった。
そんな最中にも制作されたアニメーションというものはあった。戦争礼賛アニメ『桃太郎の神兵』がそれである。この作品は1943年『桃太郎の海鷲』に続くアニメで、制作スタートは1944年。物資が不足する中での過酷な制作で、しかも制作に携わるアニメーターたちがどんどん戦争に行ってしまい、物不足、人手不足の中でなんとか完成までこぎ着けた作品であった。そうした最中でありながら、『桃太郎の神兵』は奇跡のようなクオリティを誇り、後の漫画家たちに影響を与え、このアニメ制作を経験したスタッフの中からも漫画家が多数生まれた。
終戦1945年(昭和20年)。いよいよ手塚治虫の時代が始まる。
手塚治虫の作品を語る前に、その来歴について紹介すべきだろう。
手塚治虫は相当な裕福な家庭に生まれた。まず親が漫画好きで、その当時出版されていたほとんどの漫画が家の中にあった。漫画はまだ“大衆文化”というほどの地位を得ておらず、「漫画の存在を知らない子供」も普通にいたような時代である。そんな最中で手塚治虫は家にいながら漫画読み放題、しかも家の中にホームシアターを備えており、家庭用フィルム映写機でディズニー映画を見まくっていた。
そういう家庭にありがちな話としてやはりインテリ家庭で、手塚治虫は少年時代にもソ連のエイゼンシュタインの本『映画の弁証法』を読んでいたと推測されている(大塚英志説)。
手塚治虫は物資が不足している中でありながら漫画読み放題の環境で育ったし、家庭用映写機があったから漫画映画のフィルムを手にとって1コマ1コマどのように成立していたか見ることができたし、またその当時の知的階層がおおむね読んでいたであろう本も読んでいた。超恵まれた環境で作家になるための下地を作ることができ、しかも戦後の混沌期でありながら漫画家としてデビューできたのもそういう理由だった。
1947年(昭和22年)。手塚治虫18歳。『新宝島』が出版される。
『新宝島』は当時の子供たちにすさまじい衝撃を与えた。まるで絵が動いているように見える! 音が聞こえるような気がする! シーンが次々に展開して、まるで映画のようだ!
『新宝島』が世に出たことにより、多くの人たちを漫画へと向かわせる切っ掛けを作った。藤子不二雄、さいとう・たかを、石ノ森章太郎、松本零士……みんな『新宝島』を見たことが漫画家を志す最初の切っ掛けだった。
『漫画少年』を出版していた学童社の加藤謙一は『新宝島』(か、あるいは『ロストワールド』)を目にして手塚治虫に葉書を出す。「ぜひ会いたい」と。加藤謙一は手塚治虫と面会し、手塚治虫はその時『密林大帝』という漫画を持ってプレゼンした。加藤謙一は『密林大帝』をいたく気に入り、『ジャングル大帝』というタイトルで『漫画少年』に掲載した。
これが大ヒットを記録し、手塚治虫は一躍国民的漫画家となる。
『ジャングル大帝』は『新宝島』に続く漫画の常識を変える革命的な作品となった。というのも『ジャングル大帝』は世界初の長編漫画だったからだ。
では、当時の漫画はどんな状況だったのか? 当時の漫画はだいた2ページくらい。4ページもあれば長いなぁ、といったくらいだった。それが『新宝島』でただ車が走るだけのシーンで2ページも4ページも一気に使ってしまう。このことが当時の漫画業界において衝撃だった。海外に目を向けても、『スーパーマン』や『バットマン』ですら、この時代は8ページくらいで話が終わっていた。『新宝島』によっていきなり日本の漫画が世界で最先端になったのだ。
さらに『ジャングル大帝』は長編化を推し進め、雑誌連載にして5年。全43回の長いエピソードで一つの大きな物語を語りきったのであった。ここから漫画の長編化、漫画でも大河ドラマのような長い物語を描けることが証明されたのである。
ここまでの記念碑的作品であるのに、『ジャングル大帝』の漫画単行本はその後しばらく刊行されることはなかった。なぜなら手塚治虫は単行本に向けて大がかりな修正を入れることで知られる作家であるが、しかし手塚治虫はあまりにも忙しかったので『ジャングル大帝』の単行本修正版になかなか手を付けることができない。
『ジャングル大帝』という名作を単行本として出せなかったばかりに『漫画少年』の出版元学童社が倒産。やっと『ジャングル大帝』の単行本が完結まで出たのはその17年後。その頃には漫画業界の様相も変わっており、『ジャングル大帝』よりも話が長い『忍者武芸帳』のような作品もあって長編漫画はすでに珍しいものでもなくなっていた。『ジャングル大帝』は単行本が出た頃にはもう“過去の作品”になっていたのである。
続いて時代の中心になるのは「トキワ荘」である。「トキワ荘」は藤子不二雄Aが『まんが道』の中で紹介し、さらに何度もテレビで紹介されたし、映画にもなったから知っている人も多いし、ある種の「トキワ荘史観」、もっというと「トキワ荘信仰」なるものが世の中にあるが、漫画の歴史はトキワ荘の中だけで作られたわけではない。これだけはまず始めに断っておくべき事だが――とはいえ、トキワ荘が漫画史において重要なポジションにあるのは間違いない。
ではトキワ荘とは何なのか、その話から始めよう。
手塚治虫は兵庫県宝塚市出身の作家で、そこで『新宝島』を創造するが、その後やはり地方は不便だと1952年(昭和27年)に上京。しかしあまりに編集者の出入りが激しく、アパートの大家さんからも煙たがられたので、翌年、学童社の勧めでトキワ荘に移っている。
その後、学童社が自分の雑誌に連載を持っている漫画家たちを次々とトキワ荘に住まわせ、次第に漫画家が集団で住む場所に変わっていった。
トキワ荘のメンバーを入った順番に紹介すると、寺田ヒロオ、藤子不二雄(F&A)、鈴木伸一、森安なおや、赤塚不二夫、よこたとくお、水野英子、山内ジョージとなっている。他にもトキワ荘には住んでいなかったが、通っていた漫画家は多数。トキワ荘はまるで漫画工房のような場所になっていた。
トキワ荘に住む利点は何だったのか。まず「情報の共有」だった。当時はインターネットどころか電話も普及しきっていないような時代だし、当然ながら『漫画の描き方』のような本も存在しておらず、漫画がどんな道具を使って、どのように描かれるのかよくわかっていなかった。そうした最中で、一緒に住んで情報と技術の共有ができることは大きかったし、その中で表現を推し進めることもできた。誰かが新しい表現を開拓するとすぐに共有され、また別の誰かが新しい技法を見つけるとすぐに共有され……漫画の技術がトキワ荘の中でどんどんアップデートされ、しかも技術は全てオープンソースとなっていた。だからトキワ荘のような場所で漫画技術が爆発的に発展し、進歩したのだった。
ちなみに漫画家はデビューしたての頃は社会経験の少ない子供という例も多かったので、炊事洗濯のやりかたを先輩から教わる、といった交流にもなっていた。
漫画の発展はトキワ荘だけでなし得たのではなく、当然ながら別の系譜も同時進行で進んでいた。
1953年頃、貸本漫画ブームが到来し、出版社から月何百点と貸本漫画が出版され、全国に貸本漫画屋が増えていった。最盛期には貸本漫画店は2万店あったとされる。
1953年頃といったらちょうど団塊世代が少年期に入り、出版社にとって潤沢な読者がいた頃だ。こうした背景もあり、貸本漫画の需要が急速に増えていった。
しかし漫画家の数は限られており、従来の漫画家では需要に対応しきれなくなる。そこで出版社が目を付けたのが紙芝居作家たちである。水木しげるや小島剛夕、白土三平といった作家たちだ。これらの作家たちは紙芝居の作風を継承していたので、雑誌連載漫画とははっきりと違う背景を持ち、それがある種のクセとなって子供たちに受け入れられていった。
1956年(昭和31年)『影』が創刊。1957年『街』が創刊。ともにアンソロジー形式の単行本シリーズである。ここから「劇画」という言葉や概念が生まれていく。
実は貸本漫画から生まれたのは劇画だけではない。牧美也子が少女漫画を開拓し、小島剛夕、平田弘史は時代劇を開拓し、水木しげるや楳図かずおが怪奇漫画を開拓し、手塚治虫を源流とするトキワ荘とははっきりと違う系譜がここからいくつも生まれ、漫画の多様化を推し進めていくことになる。
ともかくここでは「劇画」がいかにして生まれたか、の話をしよう。
『新宝島』に衝撃を受けて漫画家を志した少年は非常に多く、さとう・たかをを筆頭に、松本正彦、辰巳ヨシヒロ、佐藤まさあきといった作家たちがいたが、しかし彼らはトキワ荘には参加することができなかった。さとう・たかをは関西在住でトキワ荘から遠く離れていたし、トキワ荘メンバーとは絵柄もまるっきり違っていた。
その当時、偶然にも日の丸文庫というレーベルが設立され、さとう・たかをはそこに参加していく。ここから生まれたのが56年の『影』であった。
『影』は大ヒットするのだが、しかし大御所漫画家を次々と招聘し、事業を拡大したところ一気に会社が傾き、倒産。
漫画家たちは原稿料を得ることができず、やむなく日の丸文庫の顧問だった久呂田まさみが辰巳ヨシヒロ、松本正彦、さいとう・たかをといった漫画家を誘って名古屋のセントラル文庫に持ちかけ、『影』をそのまま継承するような単行本シリーズを刊行することになる。これが『街』である。
ところが日の丸文庫の経営陣は自分のところを去った久呂田まさみが気に食わず、妨害を始める。この妨害から逃れるために、辰巳、松本、さいとうは1957年に東京へ移り住み、国分寺で同じアパートでともに暮らすことになる。ある種の国分寺版の「トキワ荘」であり、ここから劇画文化が花開くことになる。
『新宝島』が描かれてから10年の歳月が流れており、その当時衝撃を受けた子供たちも大人。そうした大人になった漫画読みに、劇画は受け入れられ、一大ブームと発展していくことになる。
1959年(昭和34年)。当時の皇太子であられた明仁親王と正田美智子さんのご成婚がテレビ放送される。これを切っ掛けに、家庭用テレビが一気に普及し、人々の娯楽はテレビが中心となっていく。
テレビの出現・普及は様々な文化に影響を与え、映画は斜陽産業になり、紙芝居はほぼ絶滅、貸本漫画も子供たちの興味の対象ではなくなっていく。
またちょうどこの頃、日本最大手である小学館と講談社がともに少年漫画誌を創刊。『サンデー』と『マガジン』である。全国中に広まっていた貸本漫画屋は瞬く間に閉店。大手出版社が出版する雑誌、漫画に日本中が塗り替えられようとしていた。
こうした最中、貸本屋を主戦場としていた劇画ブームの一気にしぼんでいくことになる。
追悼・みなもと太郎
漫画家で本書の著者であるみなもと太郎先生が2021年8月7日にお亡くなりになりました。
2020年に肺がんが発覚し、闘病生活が続いていたのですが、心不全でこの世を去りました。74歳でした。
本書に書いてあるとおり、漫画は昨日今日突然生まれたものではなく、生まれてくるまでにはそれなりの経緯があり、その文化がここまで育ってくるまでにもそれなりの経緯があります。漫画は日本において間違いなくもっとも大衆に根付いた文化でありますが、しかし「もっとも地位の低い文化」としてその価値は長年見下されてきました。
みなもと太郎先生は「どうして漫画が日本でここまでの支持を得たのかわからない」と語っていました。確かにこれを考えるのは難しい課題です。
例えばフランスのバンドデシネの場合は、「大衆文化」ではなく「アート」を目指していきました。これはフランスでは「知的階層」と呼ばれる人達の勢力が圧倒的に強く、そういう人々に認められなければ「文化」として認められないという背景がありました。だからバンドデシネはやや堅苦しい「ファインアート」のような質感を目指していった……という背景がありました。
では日本ではどうでしょう? 日本も同じように権威主義的が人々が我々の上にいて、それは大きな勢力を作っています。大抵の大人は、いわゆる上級国民という人達に影響を受け、すでに権威を与えられた高級な文化ばかりを「良いもの」と見なす傾向があります。この考え方は社会地位の高い人ほど捕らわれがちな考えで、これが日本の文化を海外に紹介するときに、問題となります。
日本の文化を海外に紹介しよう……というとき、能であったり、お茶であったり、古くから日本にある文化がまず第一に紹介されるのですが、海外の人からすると「何やらただごとではない雰囲気だがよくわからない」と反応されます。紹介する側もわかりやすく噛み砕いたりはしません。それどころか、ひょっとすると日本人の方もわかってないんじゃないか……みたいに思われている節もあります。単にそれらの文化が権威的な地位を持っているというだけであって、そういう地位のみで見て、中身を理解していないし、理解していないから解説すらできない……それが我が国の社会的地位の高い人が持っている意識です。社会的地位の高い人ほど、「文化」に対する意識が抜け落ちていますね。
漫画やアニメの紹介はたいてい、2の次、3の次にされていますね。偉い人は漫画もアニメも理解していませんから。紹介するにしても下手クソです。
それではどうして日本の漫画は、フランスのように権威主義を目指してアートになっていかなかったのでしょうか?
日本にも権威主義はあるのですが、決定的な違いが、「作り手はどちらを向いているのか?」という視点です。フランスは権威側を向いて作品作りに臨み、やがてアートになっていきましたが、日本は大衆側を向いて、エンターテインメントになっていきました。
そのように目指していった理由を考えるのは難しいですが、おそらくは日本人の人口の多さ。日本人は外国と較べるとき、いつもアメリカ(3億3000人)や中国(14億5000万人)などと比較して、「日本は小国だ」「小さな島国だ」と自己卑下しますが、実際は日本の国土はかなり大きく、人口も非常に多い国です。フランスの人口は6000万人ですので、日本人の方が圧倒的に多い。
産業として漫画が急速に成長を始めた戦後の時代には、日本人は1億人もいたわけですから、その1億人に向かって充分な商売ができたわけです。特に戦後は団塊世代と呼ばれるベビーブーム世代が大量にいたので、漫画の単価は昔から安かったけど充分なビジネスが成立しました。そこから波に乗って、文化として定着するに至った……わかりやすい仮説を示すとこういうことでしょう。
漫画を文化として出発したいと思ったときに、買い手が市場に一杯いた。さらにそういう人々の成長に合わせて、少年漫画が青年漫画へ、さらに大人向け漫画と、漫画自体も成長していった。そうしてやがて漫画が全ての世代を制覇して、漫画は日本を象徴するような文化になっていきました。
でもこの考えも実は表面的な話に過ぎません。
江戸時代に遡っても浮世絵文化があって、これもやはり大衆の側を向いた文化で、しっかり根付いていました。戦後世代に向けた文化だったから漫画が産業として成立し、その後も根付いていった……という説を挙げてもそれは表面的でしかなく、遡ると浮世絵という「漫画のような文化」がすでにあって、それが大衆に根付いていました。ひょっとすると、そういう文化の記憶があって、人々は無意識にそれに代わるものとして漫画を求めたのかも知れません。
文化というものは全くの無価値ではありません。多くの人は、文化というのはただの暇つぶし、「仮初めのもと」と捉え、その重要さについて特に考えず、深い愛着も示すことなく使い捨てにします。不思議なことに、大人になればなるほど、権威主義で考えるようになり、文化の本質がなんだかわからなくなってしまう人が多くなっていきます。
しかしホイジンガの『ホモ・ルーデンス』などを読むと、「遊びが文化を作る」と書かれています。遊びがその国、あるいは民族の精神性を作り、習慣を作り、さらには風景までを作り出していきます。遊びが文化の形を決めていたのです。
人は何か事件に直面したとき、なんとなく「○○だ」と思考します。多くの人はそれを自分のオリジナルだと思い込んでいるでしょう。しかし違います。こういう思考も、実は文化から影響を受けています。人々が考えそうなことの雛形は文化が提供し、私たち世代になるとそうした思考や習慣の多くは漫画から強烈な影響を受けています。
漫画は今や日本を代表とする文化となりました。そう呼ばれています。であれば、漫画とはなんであるか、それを考えるのはまったくの無駄ではないでしょう。このように漫画が流行した理由はなんであるか、発達したのはなぜなのか、それを追求すると、自ずと漫画から日本人が見えてくるはずですから。
そういった文化を守るのも当然大事です。文化を守る、というのは産業を守る……という意味だけではなくその歴史遺産を守ることも大事です。
こういったお話をすると「国に手を出させるな、碌なことにならない!」という漫画家達や、その一方で理解の浅い社会地位の高い人々との間で葛藤が起きてしまうのですが……。こうしたギャップが埋まるまでは、あともうひと世代くらい時間が必要なのかも知れません。
本書『マンガの歴史』は漫画を理解するための教科書として優れた1冊です。戦後漫画がどのように始まり、発展していったか、その過程を実際に見ていた人の体験で描かれています。その時代の人々の肌感覚も同時に描かれているので、その漫画が登場していかにショックだったか、いかに時代を変えて今に至っているか、そういった情緒的なものもしっかり描き込まれています。
漫画の歴史を、自分の体験を交えて書ける……ということは非常に貴重です。その後の世代では、書けないことですから。
ただ、惜しいのはこの第1巻で終わってしまったことでしょう。まだまだ続きがありそうな終わり方でしたし、続きが必要でした。本書の歴史はまだ戦後漫画の黎明期を脱しておらず、そこからいかにして現代に繋がっていったのか、その記録が作られることなく、幕を閉じてしまいました。著者のみなもと太郎先生の年齢を考えると仕方なかったというしかありませんが、残念に思います。
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