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映画感想 屋根裏のラジャー

 イマジナリーフレンドは、どこかに実在するかも知れない……。

 スタジオジブリ解散後、残されたスタッフたちで立ち上げたアニメーション制作会社スタジオポノック。その現時点での最新作が本作。2023年12月公開の映画『屋根裏のラジャー』。
 原作はイギリスの作家A・F・ハロルドによる児童文学『僕が消えないうちに』。イギリス文学協会賞を受賞。ケイト・グリーナウェイ賞、カーネギー賞などにノミネート。世界的に大ヒットした児童文学だ。
 監督を務めるのはスタジオジブリでアニメーターとして活躍し、特に高畑勲作品の演出面を支えた百瀬義行。長編映画監督としてのデビューは2019年の『ニノ国』。本作はそれに続く2作目となる。
 作画監督を務めるのはやはりジブリ出身小西健一。東京アニメーター学院卒業後、1989年研修生第一期生としてスタジオジブリ入社。1993年のジブリ作品『海が聞こえる』で早くも原画を担当。1994年『平成狸合戦ぽんぽこ』でも原画を担当している。1999年にフリーランスになったが、その後もジブリ作品の作画を多数引き受けている。『ホーホケキョ となりの山田くん』で作画監督。『かぐや姫の物語』でも作画監督を担当。ということは、今作はジブリ残党組のなかでも「高畑勲組」が中心になって制作された作品……という見方もできる。
 本作の制作は、フランスのアニメーション会社と協業となっている。なぜか公式サイトにも具体的にどの会社なのか記載がないのだが、エンドテロップを見ると「Les Films Du Poisson Rouge」と書かれている。2020年劇場公開し、世界中で絶賛されたアニメーション映画『ジュゼップ 戦場の画家』を制作したことで知られている。このアニメーション会社は手書きの絵をそのまま動画として動かす技術を開発している。もしかしたらこの技術を提供してもらったのかな……しかし資料が少ないので、ちょっとよくわからない。
 映画批評集積サイトRotten tomatoでは80件の批評家によるレビューがあり、91%の肯定評価。一般レビューでも75%の評価で、評価自体は非常に高い。
 ただし興行成績は悲惨な結果になっており、ちょっと不確かな情報だが観客動員数18万393人、興行収入は2億3814万円。米国でも劇場公開されていて、3日間で稼いだのが47万ドル。
 総作画枚数10万枚越え、最新技術も導入した作品だから、制作費は公にされていないがそれなりにかかったはず。この興行収入では制作費すら回収できるわけがない。
 実は2023年に日本で公開されたアニメ映画の中でも、本作は最低の興行成績だったという。
 なぜそうなったのか? とにかくも発表のタイミングが悪かった。同年に公開されたアニメ映画が宮崎駿監督作品『君たちはどう生きるか』で、まずこちらがロングヒット。同じ12月公開アニメ映画は東宝配給作品だけで見ても『窓ぎわのトットちゃん』『劇場版 SPY&FAMILY』、ディズニーの『ウィッシュ』。さらに東和ピクチャーズ配給『パウ・パトロール・ザ・マイティ・ムービー』、東映配給『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』、他にも『劇場版乙女ゲームの破滅フラグしか(略)』『映画すみっこぐらし』『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』……という地獄のラインナップがあって、注目度があまりにも低すぎるうえに、東宝は『君たちはどう生きるか』『窓ぎわのトットちゃん』『SPY&FAMILY』の3作品に宣伝をかけることにして、『屋根裏のラジャー』は切り捨て。映画館に行っても予告編すらやってくれず、上映のランナップからも外されていた。宣伝費がまったく出なかったから、ほとんどの人には作品が作られたことすら知らされず、どこの映画館に行っても上映すらされていなかった……という状況だから稼ぎようがなかった。
 一時は本作の致命的な興行的失敗によってスタジオポノック倒産……も囁かれたが、Netflixと包括契約を取り結んだことにより、首の皮一枚で繋がった……というのが現状のようだ。そのおかげで現在、スタジオポノック作品がNetflixで見られるようになっている。
 オリジナル映画を売ることが、いかに難しいかが本作でわかってくる。

 それでは前半のストーリーを見てみよう。


 雨が降っていた。アマンダは小学校の前で、友達のジュリアとお喋りをして時間が過ぎるのを待っていた。
「どっかにない? 晴ればっかの国って」
「雨の後が虹が出るかもよ。約束の虹」
「約束? なにそれ」
「雨が降ったときに、虹を見ていると、大切な約束が思い出せるんだって」  しばらくして、ジュリアの両親が迎えに来た。アマンダもスクールバスに乗って帰宅する。
 家へ戻ると――アマンダの家は本屋だったのだけど、今日で閉店だ。アマンダは店の前に貼られている「閉店のお知らせ」を寂しそうに見詰める。店内の様子はもうすっかり片付けられている。あの本だらけで賑やかな様子が嘘みたいだった。
 ただいま――家の中に入り、2階、さらにその上の屋根裏部屋へ行く。なにもかも忘れよう。空想の友達、ラジャーと。
 ラジャー! 遊ぼう! 今日は雪国だ! ラジャーと一緒に雪原を滑り落ちていく。
 でもしばらくして、本屋に来客があった。今日が閉店なのに……。ミスター・バンティングを名乗るその男は、「子供たちの調査をしている」と語るけど……うさんくさい。一緒にいる女の子もなんとなく薄気味の悪い。
 ねえお母さん、あの女の子も変だったよね。
「女の子? なんのこと?」
 ……もしかして、お母さんには女の子が見えていない……。空想の友達はラジャーだけじゃないんだ。
 その翌日、お母さんと一緒に車ででかける。近所のスーパーへお買い物。お母さんは何も信じてくれない。空想の友達のラジャーのこと、幽霊みたいなあの女の子のことも……お父さんなら……お父さんなら信じてくれたのに……。
 スーパーの駐車場にやってきて車を駐める。お母さんは駐車券を取りに行った。その間、アマンダはラジャーと過ごすことに。
 そこに現れた。あの男。バンティング。バンティングはラジャーを食べようとする。信じられないくらい口を大きく開けて、蛇のように丸呑みしようとする。
 アマンダはとっさにバンティングに攻撃し、ラジャーの手を引っ張って走る。お母さんのところまで駆ければ……。お母さんなら助けてくれる――。
 でもそこに、車が。アマンダは車にぶつかって――。
 アマンダは気を失って病院へ運ばれていく。主を喪ったラジャーは、アマンダに会おうと追いかけて行くけど、その姿がうっすらとかき消えていく……。


 ここまでで前半25分。
 アマンダにはラジャーという「空想の友達」がいる。空想の友達【イマジナリーフレンド】であるから、その存在はアマンダにしか認識できていない……はずだったのだけど、ある日、アマンダはバンティングという男が連れている少女を目撃する。
 実はイマジナリーフレンドを認識できる子供は、「他人のイマジナリーフレンド」も認識できる。「イマジナリーフレンドはただの空想ではなく、実在する」という発想の元、ではそのイマジナリーフレンドの社会はどのように作られているのか……そこから物語を広げていっている。かなりユニークな視点の作品だ。

 冒頭のシーン。閉店間際の本屋に、バンティングが訪ねて来ている。

 数カット挟んで、さっきいなかったはずの女の子が、すっとそこに出現している。作法的には「ホラー」の文法で作られている。場面の微妙な暗さやシチュエーションを見ても、ここははっきりホラー。
 ホラーの文法で作られているけど、その幽霊に見える女の子も実はイマジナリーフレンドですよ……という。イマジナリーフレンドがある意味では「幽霊」のような存在でもある……ということが示されている。もしかしたら、幽霊も実は主を喪ったイマジナリーかもね……ということだったのかも知れない。

 では映画中でイマジナリーフレンドがどういうものであると語られているのか。そこから掘り下げていこう。

 ネタバレ防止のために、ここがどういう場面なのかは伏せるとして……。
 この場面、女の子が廃棄された冷蔵庫を覗き込んでいると、草むらから蛇が飛び出してきた。女の子が悲鳴を上げると、冷蔵庫の蓋がパタッと開き、中から犬が飛び出してきた。ここからこの犬が、女の子のイマジナリーフレンドになる……という物語が描かれている。

 このシーンね、作品の中ではファンタジーとして描かれているけど……。この時、実際になにが起きたのか、を推測してみよう。
 女の子が廃棄された冷蔵庫を覗き込んでいると、草むらから蛇が飛び出してきた。女の子は悲鳴を上げてのけぞり、そこで冷蔵庫の蓋がパタッと開き、蛇はその蓋に押しつぶされて死んだ――これが真相でしょう(作品の中ではそうだと語られないけど)。実際には、そういう他愛もない話だった。
 しかし幼い女の子には、蛇が突然死んだ……という現象が理解できなかった。ビックリしてのけぞった時、蛇が視界から消えたから、どうして蛇が死んだのかわからなかった。そこで少女は、「犬が助けてくれたんだ」というストーリーを作った。この少女の思いつきを具現化するために、犬のイマジナリーフレンドが出現した。
 これがこの物語における、「イマジナリーフレンドが出現する理由」となっている。

 人間はどのように物事を認識し、理解するのか? 私たちは普段から合理性や科学的視点だとか言い合って、その通りに行動し、そういう見方をしているというつもりでいるけれど、実際にはその通りに行動することはできない。
 例えば一つの事件が起きました。その事件の目撃者を数人集めて、証言させると、必ず食い違いが出てくる。犯人は巨漢男だった。いや犯人はチビだった。いやいや、犯人は女だった……聞き取り調査をやっている警察のほうも「思い込み」は持つものだから、自分の思い込みに基づいて「犯人はこういう男だっただろ」と無意識のうちに誘導し、まったく違う犯人像を作り上げ、誤認逮捕が起きる……。例え話だけど、こういう話は世界中、どこでも起きている。
 それくらいに、人間の認識能力はいい加減で曖昧。人間は目の前で起きたことを正しく認識することはできず、正しく思い出すことができず、正しく語ることすらできない。いつも半分くらい事実、半分くらい空想(思い込みも含む)で生きている。それくらいいい加減だから、一つの事象を思い返そうとすると、手元にある手がかりをもとに、“物語”を作り上げてしまう。その物語を作り上げるとき、自分の経験や嗜好が反映されて、事実を歪めてしまう。しかし当人は自分が物語をこしらえてしまっている……という認識がない。
 子供にもなると、現実に対する認識能力が低く、現実と空想の境界が曖昧だから、理解を超えた現象が目の前で起きたとき、その起きたことを説明するためにファンタジーを作り出す。それは子供なりの「分析」ではあるのだが、その間違った面白い分析が、イマジナリーフレンドを生み出す切っ掛けとなる。

 本作におけるイマジナリーフレンドの謎について、さらに掘り下げていこう。
 イマジナリーフレンドは、単純にその子供が「想像力豊か」でさえあれば出現するものではない。出現するには、相応の「理由」が存在する。その理由とは、その子供の理解を超える事件・現象が起きた。その事件・現象を説明し、その子供自身を納得させるために、「イマジナリーフレンドがそこにいる」というストーリーが作られる。
 本作の冒頭、イマジナリであるラジャーは、「3ヶ月と3週間と3日前に生まれた」と語っている。ということは、「事件は3ヶ月と3週間と3日前に起きた」ということを意味している。

 『屋根裏のラジャー』のいいところは、具体的になにが起きたのか、ぜんぜん語られないことにある。その代わりに、物語や映像のあちこちに、ちょっとした違和感を作っている。
 例えば、冒頭のアマンダとジュリアの対話シーン。ジュリアが「うちのパパったらひどいんだよ!」と話し始めると、アマンダはすっと無表情になる。なぜこんな顔をするのか、理由は語らない。

 アマンダの自宅は本屋だけど、今日が閉店の日。なぜ本屋が閉店になるのか、理由が語られない。
 お母さんのリジーは、「本の仕入れは主人がやっていたから……」と語る。そのお父さんはどこ?
 映画の登場人物が、最初から何か隠している……という雰囲気でお話しが進んでいく。でもここまでヒントを出せばわかるよね。3ヶ月前、なにが起きたのか……。
 映画が始まった最初はわからなかったが、じわじわと答えが見えてくる。ただし、映画の中ではあえて一度も明言されない。観客に考えさせて、中盤辺りでハッと「察する」ことができる作りになっている。ここが巧い!
 どうしてお父さんはいなくなったのか。悲しみに暮れて、ビールを飲んでばかりになっていたお母さんをどうやって守るのか……。幼いアマンダなりに考えたストーリーが、ラジャーというイマジナリーフレンドだった。

 ただ、その少年が金髪の美少年……ってところに、アマンダに微妙な性の目覚めが予感されている。そこは物語的に重要でもないけど。

 ところが前半パート最後で、アマンダは交通事故に遭う。

 それを切っ掛けに、急にラジャーの姿が消滅しかける……。

 どうしてこうなるのか?
 これも人間の意識にまつわる問題だけど、人間は、自分が昨日なにについて考えていたのか、どのように問題の答えを導き出したのか、そのほとんどを覚えていない。そういうことを考えていたことすら、忘れる。
 人間の記憶力はかなり曖昧なもので、ほとんどの人は自分が何を考えていたのか、なにを発言したのか……。「何を食べたのか」という物証がそこにあるものであれば、ある程度記憶を掘り返すことは可能だけど、「思考」といった頭の中だけのもののことになると、記憶し続けることはまったく不可能。日記を書いているとか、SNSで発言している……という場合ならともかく、ただの思考という物証も残らないようなものを記憶し続けることはできない。
(その思考を「論」という形にまで仕上げていたら、長期に覚えておくことは可能。ただ、どうやってその論に至ったのか、その思考を記憶し続けるのは難しい)
 普通の人は数日前、自分がどのように考えて、どういう政治性を持って発言していたのか、ほとんど記憶していない。「お前、この間と言っていることが180度違うじゃないか」……なんてツッコミをするのは不毛。なにしろ記憶していないんだから。数ヶ月もあればまったく違う人間のように言ったり行動したり……ということはよくある。こういう人は日和見主義とかそういうのではなく、ごく普通の人。数ヶ月前に彼がどのような発言をしていたのか……そんなこと問うことすら無駄。
 昔から「男子、三日会わざれば刮目して見よ」という言葉があるけど、3ヶ月もあって、間になにかしらの事件のようなものがあったら、ほとんど別人のようになって行動している……なんてことは普通の人の中でもよくあること。
 私はどうしてみんな、昨日言ったこと、やったことをことごとく忘れるのだろう……と不思議だったけれど、今では「それが普通なんだ」と理解している。普通の人は、体験を伴わない思考・意識・認識といったものは1日で完全に忘れる。流れの中に身を任せる……というのが普通の人々の生き方。私のように、思考や意識を数日どころか数年も記憶し続けられる方が異常だったのだ。
 イマジナリーフレンドも、あんなに大事にしていたはずなのに、ふっと気付けば忘れている。イマジナリーフレンドがいたという記憶すらも消えてしまう。なぜならイマジナリーフレンドも所詮は「頭の中」だけのものだから、その頭の中からフッと消えてしまうと、「イマジナリーフレンドがそこにいた」ということも忘れてしまう。そのイマジナリーフレンドを絵にしていた……という場合なら記憶し続けることは可能だけど、アマンダはそういうこともしていない。
 アマンダは事故に遭った。その切っ掛けに、「イマジナリーフレンドと遊んでいた」という記憶の連続性のようなものがフッと途切れ、途切れてしまうと急速に忘却が始まる。
 ごく稀に、そういう「空想遊び」の中で作り上げた、「自分だけの世界観やキャラクター」を数ヶ月、数年も保持し続けられる人もいる。そういう人はどういう人なのか……を見ていこう。

 この物語における宿敵はバンティングだが、そのバンティングは何者なのか?
 このシーンで、ほんの一瞬、バンティングの少年時代と思わしき姿が現れる。炎の中に現れる、少年のバンティングと、イマジナリーフレンドの少女。
 この描写で、あっ……と察する人は察するでしょう。バンティングと一緒にいるイマジナリーフレンドは、バンティングが思春期の頃に思い描いた、「理想の異性パートナー」だ。こういう「頭の中で作り上げた異性パートナー」の幻想からは、なかなか卒業できない……わかる人はわかるよね?

 もう気付いたと思うけど、バンティングは「私たち」によーく似ているんだ。頭の中で思い描いた異性パートナーの妄想から永久に抜けられない。そういう妄想をえんえん頭の中で転がし続けている。だいたいの人は、どこかでそういう空想を抜け出して、現実の恋愛をするものだけど、中には「空想の性」から永久に抜け出せない者もいる。
 わかるよね? 私たちだよ、それって。

 バンティングを演じるのはイッセー尾形。こういう作り込んだキャラクターを演じさせると突き抜けて上手い! もしかすると声優向けの才能では?

「わかるかい? 私は想像する側なんだよ」

 普通の人は、頭の中で思い描いた「空想の友達」のことをすぐに忘れてしまう。ある瞬間、理解不能のできごとが目の前で起きて、その説明のために現れるのがイマジナリーフレンドだ。そのイマジナリーフレンドが不要になると、パッと忘れる。
 例えば最初に説明した老犬のイマジナリーフレンドも、「蛇から自分を救ってくれた老犬」というストーリーの中で重要なのであって、そのストーリーが自分の意識の中で不要になると、イマジナリーフレンドも消えてしまう。人間は思考をずっと保持しておくことができない……だから思い返さない時期がいくらか続くと、スッと脳内から消えてしまう。
 しかし、稀に頭の中で作り上げた空想の世界、空想のキャラクター遊びをえんえんと、何年も何年も保持し続けられるタイプの人間がいる。
 それは何者か? クリエイターである。
 クリエイターの基本的な素質は、「空想遊び」を何ヶ月も何年も頭の中で保持し続け、発展させられる人のことである
 実はバンティングってクリエイター。
 だからバンティングはこう言う。
「わかるかい? 私は想像する側なんだよ」

 ではなぜバンティングは作家にならなかったのか? なれなかった、と考えたほうがいいだろう。
 これも実はよくあることで、明らかにクリエイターの素質を持っているはずなのに、その素質を発揮できる仕事に就けなかった……そういう人は世の中にいくらでもいる。時代的な要因やタイミングの悪さ……要するに「運」がなくて。
 こういうクリエイター素質の人間が、才能を発揮できない仕事に就けなかった場合、一定確率で「モンスター」に変わる。具体的にどういうモンスターか……は、年がら年中新聞やテレビでニュースになっているからみんな知ってるでしょ。クリエイターは才能を消耗し尽くす仕事に就く……ことが一番の幸福だけど、そうならなかった場合が地獄。本人にとっても、周囲にとっても。
 バンティングはそういうモンスターになった……という人間。

 ところでバンティングが連れているイマジナリーフレンドの少女。ホラー的な雰囲気で目元に影が落ちているから、そういうものと見てしまうけど、こうやって絵を止めて見ると、すっげー美少女
 バンティングがこんな美少女を空想で作り上げた……というところで察しちゃった。あっ、私と一緒だ。バンティングは“俺らの仲間”だ。
 映画を作っている人間であれば、そのことに気付くはず。「バンティングは俺たちだ」ってどこかで考えるはずだ。バンティングは敵であるのに愛嬌があるし、そこまで非道な行為はしないし、女の子の描き方は主人公グループより明らかにフェチが強く注ぎ込まれている。女の子の仕草や動き方、明らかに主人公グループより一段上のこだわりがある。
 この映画はアマンダとラジャーが物語の中心だけど、裏面にはバンティングの物語も存在している。バンティングの物語自体はぜんぜん語られないんだけど、どこかで「俺たち、むしろこっちだよ」という想いが忍ばされているような気がしてならない。

 ではこの作品において、「想像の存在」をどのように捕らえているのか? あくまで「想像」であるから、完全なる自由なのか?
 そうではない。映画の最初のほうに、こんな台詞がある。

ラジャー「ねえアマンダ。今度さ、僕が壁とか扉とか、すり抜けられるように想像してくれない?」
アマンダ「やめてよ。そんなの幽霊みたい!」

 アマンダは意外と常識のある子で、架空のお友達を創造したけれど、そのお友達の能力をきちんと常識の範囲内に定義付けしている。怪力もないし、空を飛んだりもしない。身体能力は普通に子供なみだ。

 一方、その「幽霊みたい」な子であるこの少女は、気体になって壁抜けができて、空を飛ぶこともできる。なんでそんなことができるかというと、バンティングがそういう存在として定義付けしたから。
 他のキャラクター達も、実はそれぞれで「原則」が違っている。例えばエミリは滑空ができるし、ジンザンは眠る必要がない。創造主がそのキャラクターをどう定義付けするかで、能力も変わっている。

 映画中のある場面。

ラジャー「アマンダ、このボート、空とか飛べないよね!」

 アマンダは「飛べない!」と答える。このやりとりがなんなのかというと、いまアマンダが想像で作り出したこの世界の中では“ボートは空を飛べない”と定義付けをしている。この後、行く先に巨大な滝壺が現れて、真っ逆さま落ちていく。“ボートは空を飛べない”と定義付けをしたから転落する。この時、アマンダとラジャーを追跡していたバンティングも、その定義に従って転落していく。要するに、バンティングを転落させるための定義付けだった、と。
 想像の戦いはこうやるんだ……というお手本のような戦い方だ。

 で、傘を広げると風に乗って上昇していく。ボートは飛べないけれど、傘を広げると飛べない……とは言っていない。どこでそんな定義付けしたんだよ……答えはプロローグシーン。あそこで「傘はふわりと浮かぶ」と定義付けしているから、ここで浮かんでいる。

 ここまでは『屋根裏のラジャー』における基本原則のお話し。一見すると、秩序なく自由気ままに思いつきでシナリオを書いているように見えるかも知れないけれど、きちんとこの作品における原則がある。どうしてイマジナリーフレンドがいるのか、そのイマジナリーフレンドがどのような原則で動いているのか、すべて根拠があり、根拠を示しながらお話しが進んでいる。

 この作品を評価すると、とにかくシナリオの出来が良い。まとめ方が綺麗。前半30分の間にアマンダとラジャーの関係性、宿敵バンティングの登場、イマジナリーフレンドとはなんなのか、前半Aパートの最後でアマンダが事故に遭い、それまであった物語の流れがガッと変わる。
 次の30分でラジャーの新しい冒険が描かれ、ちょうど映画の中間地点、1時間ほどのところでラジャーがアマンダの家に戻り、なぜラジャーが生まれたのか……そこに至る物語が改めて語られ、ここに一気にドラマ的なトーンが深くなっていく。そこからはクライマックスへ向かって行くが……。

 面白いと感じたのはこの辺り。バンティングはラジャーのことを、「ロジャー」と呼ぶようになる。これは意図的なもので、ラジャーはあくまで想像上のものだから、「お前はロジャーだ、ロジャーだ、ロジャーだ……」とささやき続ければロジャーになっていく。こうやってバンティングはじわじわとラジャーのアイデンティティを奪っているわけだ(単純にバンティングが勘違いしていただけかも知れないけど)。

 映画の後半、いよいよロ……ラジャーはアマンダに会いに行こう……とするけど……。おっと、唐突の女装子。ショタの女装子とは、なんてご褒美(その直前、めっちゃイケメンの顔してたのにね)。じゃなくて、これもラジャーのアイデンティティが喪われていく姿を見せている。ロジャーでもラジャーでもなく、「オーロラ姫だ」と定義付けをされたら、空想の存在でしかないラジャーはオーロラ姫になってしまう(このまんま女装子として覚醒しちゃえばよかったのにね)。
 最終的にラジャーはアマンダのもとに駆けつけるのだけど、姿が違うし、バンティングは「ロジャーだ」と呼ぶから、アマンダは誰のことかわからない。記憶の連続性が途切れちゃった上に、違う存在として現れてきたから、誰なのかわからない。その状態から果たしてアイデンティティを取り戻せるか……がうまい具合にドラマになっている。


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