自分で自分のnoteを読み返しながら「スキ!」した日のこと。
noteのコンテスト「#私らしいはたらき方」でグランプリを頂いた。
発表の少し前にメールを頂いていたけれど、あまり実感が湧いてこなかった。発表されてから、じわじわと実感が湧いてきた。たくさんの「スキ!」や「フォロー」をいただいて、「やったー!」と思っていたのも束の間。
そこから、noteを書く手が止まってしまった。
いつもは無限に湧き出てきてくれる言葉たちが、シーンとしている。書きたいなと思うことはあるのに、書き始めても無理やり言葉をつなげていく感覚がすごく嫌な感じだ。
私はどうしちゃったんだろう?
なんで書けないんだろう?
noteをはじめて1年半ほど、「書く気分じゃないから書かない」ときはあったけれど、「書きたいことがあるのに書けない」のは、はじめてだった。
スマホのメモ帳を開いて、書き始めてはウーンウーンとウナり、やっぱり書けなくてスマホを閉じて、でも書きたくてまた書き始め、というのを何度も繰り返した。
「そうだ!マクドに行ってみよう!」
仕事がお休みの日、行きつけだったマクドでnoteを書いてみようと思いついた。
私はこのマクドでnoteを書き始めたのだ。夜中のコンビニでアルバイトを始めた3ヶ月後くらい、息子がついに幼稚園に行き始めた頃だ。
お金がまだまだ厳しかった当時、大好きなスタバにも行く気になれなかった。でもマクドの150円のカフェラテなら、気楽に飲める。カフェラテ1杯で時には数時間も居座らせてもらって、いつもスマホでポチポチとnoteを書いていた。
最近は昼の仕事もはじまって、なかなか行く機会がなくなっていたし、お金にも少し余裕が出てきたので、貴重なお休みはスタバで過ごすことが多くなっていたけれど。なんだかその日はマクドに行ったほうがいいような気がしたのだ。
息子を幼稚園に送って、その足でマクドに向かった。前まではカフェラテ1択だったけれど、その日はハッシュポテトも買った。ハッシュポテトを追加で買おうなんて1ミリも思いつかなかったあの頃を思い出して「私にもずいぶん余裕ができたんだなぁ。」としみじみ思った。
しみじみしていると、なんだか自分のnoteを読み返したい気分になってきた。
ハッシュポテトをもぐもぐ食べながら、
カフェラテをチビチビ飲みながら、
まずはグランプリを頂いたnoteを、改めて読んでみることにした。
自分で書いたnoteなのに、まるで誰かの書いたnoteを読んでいるみたいな感じがした。
「こんなこと書いたっけ?」とすでに忘れている部分もあって、うっかり自分で書いたnoteに惹き込まれてしまった。
そして読み終わったとき、ほとんど無意識に「スキ!」を押してしまっていたのだ。「おいおい・・・自分で書いたnoteに自分でスキするなんて、ナルシストか!」と思わず自分で自分にツッコミを入れた。
ナルシストついでだし、今日は書くのをやめて、自分で自分のnoteを読み返してみようかな。
そんな気持ちになってきて、そこから1つ1つ、自分の書いたnoteを読んで、時間をさかのぼっていった。
1つ1つのnoteに「スキ!」しながら。
note1つ1つに「そのときの私」がギュッと詰め込まれていた。「今の私」が「そのときの私」を愛おしく愛おしく感じるほどに。
noteには着飾ることなく自分の感じたことを書いてきたから、それはまるで当時の自分の"心の写真"を撮って、アルバムにして残しているみたいだな、と思った。
そういえば、こんな日もあったなぁ。
こんなこと、考えていたなぁ。
と過去を思い出す楽しさもあれば、
え?こんなこと書いたっけ?
え?こんなこと感じていたの?
と忘れてしまっていることもたくさんあって。
さかのぼっていけばいくほど、
なんだか泣けてきた。
たくさん感じて、たくさん考えて、
たくさん笑って、たくさん泣いて怒って、
ほんとによくがんばってきたよね。
ほんとにえらかった!
心の底から、自分で自分をほめてあげる気持ちが湧いてくる。
夢中になって読んでいると、気づいたときには2時間が過ぎていて、ハッ!とした。
書いてから少し時間をあけて、
自分のnoteを読み返す時間。
それはとても豊かな時間だった。
noteという場所では、いろんな人がいろんな発信をしていて、いろんな使い方や関わり方があると思うけれど。
私にとってnoteという場所は、
「心の写真」を残す場所
なんだと気づいた。
インスタグラムで「目に見える素敵な人・物・場所・風景」などを残していくように。
私はこれからもnoteという場所で、目に見えないからこそ面倒でややこしくておもしろい「心」を文字という形にして、残していきたいなと思った。
そしてたまにはこうやって、その残してきた心のアルバムを眺めながら、のんびりしよう。
少し時間がたったからこそ、自分の心と距離をとって読むことができる。心はいつも動き続けているから、1週間くらいたてば今とはぜんぜんちがう心の状態だったりする。1ヶ月、半年、1年なんて経てば、もう本当に"別人"と言ってもいいくらいに変化していることだってあるのかもしれない。
でも、自分が今まで感じてきたことがなくなってしまうわけではない。
いっそ、自分が書いた文章なんだけれど"誰かの文章"を読むような気持ちで読み返してみると、過去の私が大切なことを教え直してくれたりする。
忘れっぽい私が言い訳できないほどに、「大切なことを経験した証」がnoteに刻まれていて。それを"思い出しなさい"と言われているような気がして"思い出す"と、それは"今の私"にとってすごく必要なことだったり、力をくれたりするものだったりする。
そんな目的でnoteを書くのなら、「読んでくれた方の役に立つ記事にしよう!」なんて力まなくていい。
自分の感じたことを、そっと文字にして。
そこに感じ方の似ている人が自然と集まってきてくれる。そして「すきだよ!」と伝えてくれる。そしてゆるやかに交流する。
noteには、そんな雰囲気と温かさと気楽さとゆるさがあったから、きっと私は書き続けることができた。
マクドの隅っこの席で、ほとんど泣きながらそんなことを考えていると、「書けなくなっていた理由」にふと気づいた。
グランプリを頂いて嬉しい反面、
「これからももっといい記事を書きたい!」という欲が大きくなりすぎてしまったこと。
「私をフォローしてくださっている方たちは、どんな記事を読みたいんだろう?どんな記事が役に立つんだろう?どんな記事が心に響くんだろう?」と、意識が「読んでくれる方」に向きすぎてしまったこと。
私にとってnoteは、「自分の心を残す場所」や、「自分の心と向き合う場所」だったはずなのに、その気持ちをすっかり忘れてしまっていたこと。
その3つが、書けなくなっていた理由のような気がした。
つまり私は、
「いいカッコ」しようとしていて、
せっかくフォローしてくれた方たちに
「ガッカリ」されたくなくて、
いつも100%で書いていたnoteを
150%くらいで書こうとしていたのだろう。
100%に戻って、
意識を「私」に戻すイメージをしてみると、
シーンと黙りこくっていた、私の心の中に住んでいる言葉たちが、いつも通りにぎやかにおしゃべりし始めたような気がした。
そして、またいつもみたいに「書くことが楽しい」と思いながらスラスラ書けそうな気がして、今このnoteを書いている。言葉がどんどんあふれてくる。たのしい。そして、書くことで心が整理されていく。スッキリしていく。
「だれかのために書こう」だなんて、よく考えたらおこがましかった。何者でもなくて未熟な私に伝えられることがあるとするのなら、「こんなことがあって、こんなふうに感じたよ!こんなふうに考えるようにしたら楽になったよ!もしよかったら参考にしてね!」くらいのことなんだと思う。
結局は、今自分の目の前にあることに一生懸命向き合うこと以上に「誰かのため」になることなんてないんだと、スコンと腑に落ちた。
グランプリを頂いて、気づかぬうちに鼻が高くなってしまっていたんだろうか。もしそうなら、いつもの鼻の高さに戻しておかないと。これからもnoteを続けていきたいのなら、これからもnoteを楽しみたいのなら、なおさらに。
これからも私は
悩んだり、
迷ったり、
モヤモヤしたり、
落ち込んだりするんだろう。
でもそれとセットで、
解決しようとしたり、
選んだり、
考えたり、
乗り越えようとしたりするんだろう。
そして、その過程を100%の私で、
ただただnoteに綴ろう。
だから私のnote一つ一つには、
悩んで、解決したこと
迷って、選んだこと
モヤモヤして、考えたこと
落ち込んで、乗り越えようとしたこと
がギュッと詰まっている。
それが自分の「心のアルバム」になっていく。noteが増えていけばいくほど、私の心は育っていく。強くなっていく。やわらかくなっていく。ニュートラルになっていく。
それはもうそれだけで、すごく意味があって素敵なことだと思うのだ。
あわよくば、その「心のアルバム」が、今同じようなことで悩んでいる方の、迷っている方の、モヤモヤしている方の、落ち込んでいる方の、心に届いてくれたなら。
そのくらいのスタンスでコツコツと書いていくのが、何者でもない私にできる唯一のことのような気がした。
自分ではコントロールできないこと、たとえば「このnoteを読めてよかった!」と思ってもらえているかどうかとか、スキ!をしてくれる人が何人いるかとか、フォローしてくれる人が何人いるかとか、それらを"1番"にして書こうとしてしまったら、またきっと言葉が止まってしまうのだろう。
読めてよかったと思うかどうかは、読んでくれた人の心が決める。スキをするか、フォローをするかも、読んでくれた人の心が決める。だから、そこに意識を向けすぎてしまうと、いつも不確定な結果にグラグラ不安定になってしまうのだろう。
でもね、どんなに少なくても"1人"は「このnoteを読めてよかった!」と思ってくれる人が確実にいるんだから、安心して自由にあなたの心を書きなよね。残していきなよね。
自分のページの、自分の記事の、右ななめ下にあるピンク色に色づいたハートマークを見ていると、そんなどっしりとした安心感を感じた。
自分が自分のnoteに堂々と「スキ!」できるようではありたいよな、と思う。
それは日々「自分の心と丁寧に向き合っている」という、"1番の証"のような気がするから。
グランプリを頂いて、本当にうれしかったけれど、「やったー!」というシンプルな喜びだけで終わることはなく、いろんな気持ちが湧いてきた。
でもその気持ちたちと向き合って、「自分にとって、noteはどんな場所なのか」ということを改めて考えることができた。
グランプリを頂いて、書けなくなって、また今書けている。
そのことが今はとてもうれしい。
そしてこのnoteも、またタイミングがきたときに。マクドの隅っこに座って、ハッシュポテトをもぐもぐ食べながら、カフェラテをチビチビ飲みながら、読み返す日がきっと来るんだろう。
そして自分の右手の人差し指で、きっと堂々と「スキ!」を押しているんだろう。
そう予想できるということも、すごくうれしいなと思った。
最後に。
いつも私の「心のアルバム」を読んでくださる方、そこに温かい言葉を残してくださる方、本当にありがとうございます。
また生活のバランスが変わり、前のようにたくさんnoteの世界で遊ぶことはできなくなってしまったけれど、コツコツ書くことは続けたいと思っています。
ゆっくりペースながらも、関わってくださる方々の「心のアルバム」も覗きに行きます。
これからもゆるりと、どうぞよろしくおねがいします。