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打算的な行動がいずれは無意識化するのです。
先日観客として参加した音楽ライブを観て考えたことがある。
出演者のパフォーマンスが十分楽しめるものだったということはもちろんあるのだが、私が考えたのは出演者そのものについてではない。
ステージに立っている彼らの様子と、私が何らかの形でステージに立ってパフォーマンスするときの感覚を冷静に比較してわかったことは、私には観客を積極的に喜ばせよう、楽しませようというスタンスが圧倒的に欠如している、ということだ。
ある種、「サービス精神」のようなものだ。
今回の音楽ライブでステージに立っていた出演者たちは、自分自身がスポットライトを浴びて素晴らしいパフォーマンスをすると共に、観客に盛り上がるように呼びかけ、しかもその盛り上がりに応えるようにしてパフォーマンスをしていた。
こうして、観客の期待を上回るパフォーマンスをしようというインセンティブが働くのだろう。
一方で私は、あまりそういう感覚にならない。
そして、それはステージ上でのパフォーマンスに留まらない。普段の日常の人間関係においても、サービス精神を元に行動した記憶がほとんどない。
私は「人の期待に応える」ことによって活かされてきた、という自己分析を以前にしたのだが、一見これは矛盾するように見えて、私の中では矛盾していない。
つまり、本当の本音としては別に人の期待に応えたいわけではないのだけど、それが自分の生存や関係の維持に必要だった(と思い込んでいた)から行っていただけで、それは決して、相手に喜んでもらおうとか、そういう動機があったからではなかったのだ。
そうやって自分で書いていると、私は人を楽しませようとか、喜んでもらおうとか、そういうことを本当は全然思わない人間なんだなぁということが自覚されて悲しい。
あらゆる人間関係を打算的に捉えてしまっているような気がして悲しい。
合理性を越えた領域で行動することができない人間であることが悲しい。
そう思うんだったら自分の行動を変えればいいじゃないか、とも思うが、それにしてもその行動は結局打算的なものであって、真に心の底から生まれてくる行動ではないのである。
しかし、そうやって最初は打算的にでも行動を変えていって、それを継続していく過程で、徐々にその行動が無意識化して習慣になることで、根本的な何かが変わる可能性があるのかもしれない。
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