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流れをつかむ日本史「古墳・飛鳥時代編」

トモーロです。

今回も日本史「古墳・飛鳥時代編」の話をしていきます。

この時代は、朝鮮からきた「仏教」が時代を大きく変えていきます。

それではいきましょう!


<大和政権の成立>

小さな国々で争いが多かった弥生時代ですが、中期から後期にかけて徐々に統合していきます。

邪馬台国のような強い王権を持つ国家が登場し、強い権力をもつ王のもとにまとまっていきました。

そして、その王のお墓もどんどん巨大になっていきます。それが「古墳」です。

しかし、邪馬台国以降、中国の歴史書になんと日本のことが書かれていないのです。

だから、めちゃくちゃモヤモヤしますよね。笑

先ほど出てきた古墳ですが、徐々に広まったことにより1つの国が日本を統一したのではと言われています。

それが「大和政権」ということになります。そして、この大和政権は従えた豪族たちに「氏姓制度」を導入します。

氏姓制度とは、簡単に言うと権力者の一族を「姓」で区別するという制度。

その豪族でトップにいたのが「蘇我氏」その下が「物部氏」でした。そして、この両者力をつけていきます。


<仏教を取り入れるか>

徐々に力をつけていった蘇我氏と物部氏でしたが、両者は意見が割れついに対立します。

その理由は、「仏教を取り入れるかどうか」であった。

渡来人との関係が深かった蘇我氏は、仏教を取り入れて中央集権化を目指しました。

対して、物部氏は現状維持を主張しました。そして、当時の天皇「用明天皇」の死後ついに対立します。

それぞれ別の皇位継承者をおしたてた蘇我馬子と物部守屋が対立。これに勝ったのが蘇我馬子。

自らがおしたてた崇峻天皇を天皇にし、仏教が朝廷によって公認され、急速な中央集権化が発展します。

天皇になった、崇峻天皇ですが力をうまく発揮できず、これに激おこの蘇我馬子。

「なんで俺が天皇にしたのに働かねえんだよ!」とキレた蘇我馬子は、部下に崇峻天皇を暗殺させます。

そして、自分の甥である推古を天皇にし、推古天皇が誕生します。

蘇我馬子の実力恐るべし。


<豪族を権力でねじ伏せる>

天皇になった推古天皇は、補佐役に厩戸王(聖徳太子のモデルと言われる)を任命し、ここに蘇我馬子を加えた3人で政治を運営していきます。

まず、行ったのが豪族を抑えること。これまでの氏姓制度から冠位十二階の制度へ変えます。

これまでは豪族ごとに地位と役割が与えられたが、低い地位の豪族でも能力次第で出世できると言う制度にしました。

今で言う実力主義に近い感じですね。このことによって、適材適所に人材を配置できらようになった。

次に天皇中心の政治を行うために憲法十七条を導入し、天皇の命令を絶対的なものにし、仏教を敬うようにしていきました。

推古天皇は外交も行なっていました。それが遣隋使です。

めちゃくちゃ進歩している中国の政治や文化を学ばせるために、小野妹子を隋に派遣しました。

しかし、当時の隋の皇帝は中国史上最大の暴君と言われる煬帝

めちゃくちゃ進歩している隋、そして暴君の煬帝に対して、超遅れてる大和政権から「対等な関係でお願いします」と言うしかない状況。

小野妹子殺されるの覚悟ですね。笑
勇気を持って煬帝に手紙を渡した妹子。

当然、煬帝はブチギレます。そしてギリギリ返してもらった妹子でした。

外交にも力を入れようとしましたが失敗に終わってしまいました。


<まとめ>

いかがだったでしょうか。今回は、古墳〜飛鳥時代の前半を見ていきました。

次回、どんどんと豪族を抑えていった政治ですが、豪族たちはたちまち怒りを爆発させます。

怒りが頂点に達したとき、また豪族中心の政治にしようと朝廷に立ち向かいます。

それではお楽しみに!

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