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「君たちはどう生きるか」違和感の正体。ネタバレありレビュー

前回ネタバレなしレビューとして記事を投稿しましたが、映画公開から1週間が過ぎて客足も落ち着いてきたようなので、今回はネタバレありとして改めて記事を投稿しようと思います。

しかし、前回の記事で表面上の話の筋や結果だけを記載してもあまり意味がないと書いた通り、実際はネタバレしたところで影響がない・・・というか、作品を伝えるという目的では役に立たない気がしました。

なので、登場人物の紹介やあらすじ等については前回紹介した参考動画や他のレビュー記事をご覧いただくとして、ここでは自分が感じたことを伝える上で、ネタバレになる部分があるという体で進めていきます。


▼緊張感のある圧巻の映像表現

前回、普遍的な感情やテーマをアニメーションを通して表現できることが、宮崎アニメの真骨頂だというような話をしたのですが、実際、本作においてもこれは最初から炸裂しており、冒頭の火災現場に主人公が駆け寄るシークエンスのすさまじさや、その前に(作劇上一見無駄に思える)一旦部屋に戻って着替える丁寧な芝居を挟むことで主人公の性格を伝えつつ、舞台となる世界に説得力を与える効果をもたらせています。

また、続く疎開のシーンでも人力車に乗ってやってきた新しいお母さんが車から降りるシーンで片足をそっと慎重に下ろしますが、小柄な女性にしては荷重が掛かっているような表現でわずかに違和感を感じさせると、その後のシーンで身重であることが明かされるなど、緊張感のある演出が続きます。

その後も、例のアオサギが登場して普通の鳥にしては執拗な気味の悪い動きでちょっかいを出してくる様子や、そんなアオサギを退治しようと弓を作るシーンもくどい位丹念に描かれます。

▼ダイナミズム溢れる表現の洪水

並行して、主人公がタバコをくすねて爺さんを懐柔したり、いじめられた後に自分で頭を傷つけて(ここのアニメーション表現も過剰でしたね)かまってちゃんになったりと、人間のずるい面も明らかにされます。

そしてあるキッカケ(本当の母が残した主人公に託した本である「君たちはどう生きるか」を発見して読んだこと)から、ウジウジしていた自分の気持ちにケリを付け、行方不明になった新しいお母さんを救うため、アオサギを追って異世界に飛び込んでいく・・・みたいな感じに展開していきます。

異世界に行ってからの筋立ては最初に述べた通りあまり意味を成していないので割愛しますが、若キリコのペリカンを追っ払うシーンのカッコ良さや釣り上げた巨大魚を掻っ捌くシーンでの内臓が飛び出る過剰さなど、監督の過去作を彷彿とさせるダイナミズムに溢れる表現で満足感を高めています。

▼拍子抜けで行方不明の物語

続く産屋での紙垂が纏わりつくシーンや人食いインコの大群なども独創的で興味深いですが、これらも過去作で見た表現の延長上にあるように感じられ、それはそれで構わないのですが、改めて扱うなら過去作の表現を凌駕する何かやストーリー上の必然性を期待してしまいますが、そこは意図的にずらされているような感じで今一つスッキリしません。

そうこうしているうちに大叔父に出会い、ひと悶着あった後に物語は唐突に終わりますが、巻き込まれ型というか、キリコとヒミに導かれてドタバタしている内に勝手に解決してしまった感じで、ぶっちゃけ主人公自体は大したことをしていません(感じただけ)。

この辺りも体験としてカタルシスを感じにくい原因かと思いますが、これまで単純な勧善懲悪としての結論は出していないまでも、表現の盛り上がりとしては毎回オチを付けてきた監督がそれに気づかない訳はないと思うので、これも意図的というかそこに重きを置いていないのだと感じました。

では何をやりたかったのかというところを考えると、意外と深読みすることなく、そのまま「君たちはどう生きるか」という問いかけなのかなと思いました。

つまり、これまでにやってこなかった人間らしいずるさもある”らしくない”主人公を据えて、自身のやってきた表現をパッチワーク的にあしらって改めて視聴者に投げかけることで、もうやりたいことはやったから、後は見る人の方で感じて考えてみてという投げっぱなしジャーマンみたいなムチャブリ映画だったのかなと。

▼評価が割れている理由とは

仮にそうだったとして、作品としてはそれでも良いのですが、評価が割れているのは2つ問題があるように感じます。

一つは、監督の提示した”ずるい主人公”というのが、本人の中では新しくてもこれまでに生まれた数々のクリエイターによる表現の幅の中では一般化してしまっていて、目新しくなかったこと。

もう一つは、逆にジブリ作品が一般化してしまっていることで、視聴に対してフィルターやハードルが存在してしまっていることです。

始めの主人公像については、商業映画の主人公として監督はパズーやアシタカのようなカッコいいポジティブなキャラクターを生み出してきましたが、アニメや漫画の歴史の中ではそれに呼応するようにネガティブな主人公像というものも生み出され、今では僕ヤバの殺人妄想癖とか、推しの子にしても自分の復讐心を優先して周囲の人間を誑し込むなど、複雑な内面を抱える人物像が普通になってきているため、眞人の性格も特に驚くようなものではありませんでした。

個人的には「ドラゴンクエスト8」で、デザイナーの堀井雄二氏が「今作はシリーズ初の本格的3D表現でワクワクします」みたいにアピールしていたものの、すでに他のゲームで3DRPGをさんざん体験していたユーザー(自分)にとっては目新しさにならず、なんか普通・・・と感じてしまったものに通ずる寂しさがありました。

もう一つの、フィルターやハードルについては、ちょうど先日面白いインタビュー記事があったので引用しますが、ジブリ作品が「テレビ放送を通して国民的作品になり過ぎた結果、みんながその作家性に気が付きづらくなっている」というものです。

見ている側が、無意識のうちにジブリ作品、宮崎駿監督の表現に慣れ親しんでしまい、それを超えた表現を見せてくれるだろうと身勝手に期待してしまう残酷な視点が存在してしまい、一般的にすごいことをやっていてもちょっとやそっとじゃビックリしてもらえないツラさみたいな感じです。

(こちらはゲームで例えると「ファイナルファンタジー」シリーズは、常に最先端の技術で圧倒的な表現を求められるので、作り手のプレッシャーハンパないみたいな感覚でしょうか)

▼作り手以上に自らの老いを感じさせる寂しさ

本作は、エンドロールのスタッフ陣を見ると著名なクリエイターやスタジオが集結しており、これまでのアニメ技術の粋が集められたような状態となっている反面、監督の体力的な問題から本人はコンテ作業に集中して、原画の修正はあまり行っていないと伝えられています。

そのことで「魔法が掛からなくなった」とか「ゲド戦記っぽい」などと言われてしまっていて、実際、表現は過剰なのにセルフパロディみたいに見えてしまってなんかちょっと醒めるみたいな感覚もあるのですが、ここが先ほど挙げた「作家性に気付きづらい」に繋がっているのかなという気がします。

これまでジブリ作品で作画監督を担当された方が、自身の監督作を多数発表されている中、結局、宮崎駿監督の最新作に期待してしまうのは、その”気付きづらい”作家性を求めてだと思うので、それを監督自身が許容して「お前たちはそう描いたか」と各作画担当の裁量に委ねていても、見る側(自分)の期待がそれを許さなかったという印象でした。

しかし、それもジブリ作品を追っかけてきたおっさんだから感じることで、そういう小うるさい視点を持たないフラットな視聴者にとっては、本作の圧倒的な作画パワーや初めての駿ワールドに”何かすごいものを見てしまった”という体験が残り、後に繋がるのであれば狙い通りかと思いますが、それでも、自分が対象者ではなかったという意味では、一抹の寂しさが残りました(お互い年取ったんやなみたいな)。

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