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東浩紀は「○○とは」をどのように使用しているか ~『観光客の哲学』再読

 今回は前回の記事の続きです。前回の記事はこちら。

 近内悠太『利他・ケア・傷の倫理学』には、「○○とは~~である。」という構文がやたらと頻出します。普通は言葉の定義を述べる構文のはずですが、近内はその用法を逸脱していると思いましたので、批判的に検討したのでした。
 ところで、そういえば、要約モンスターとして知られる東浩紀は「○○とは~~である」という構文をどのように使用していたっけ?と気になってきました。「要するに」とか「つまり」という要約語を多用する東ですから、「○○とは~~である」という構文もよく使っているような印象があります。かつて批評家の左藤青(森脇透青)も東の要約文体を次のように述べていました。

自分に至るまでの「批評史」を暴力的なまでの手際で「要約」=「歴史修正」し、問題領域を確定するという段階にこそ、東浩紀の鋭利さがある。
 暴力的な要約能力。東浩紀の読者であればそれも皮膚感覚としては理解できるはずだ、東はこの戦略をひとつの文章のなかでも多用している。東が用いる「言い換えれば」や「すなわち」という接続語は、実は「言い換え」でもなんでもないものを接続している。この跳躍を自然なものに錯覚させ、読み手を「ドライヴさせ」るのが、彼の文章の特徴である。東浩紀の業績を一言でまとめれば、この文体を開発したことに尽きる。

資本主義的、革命的 東浩紀の広告戦略についてhttps://daisippai.hatenablog.com/entry/2018/10/26/200000

 東の要約は恣意的であると注意しているわけです。であれば、「○○とは~~である」という構文も同様の使い方をしているのではないか。そう思って調べてみたのが今回の記事になります。『観光客の哲学』から「○○とは」という文章をピックアップし、どのような用法で使われているか確認しました。もし東も近内のような使い方をしているのであれば、近内だけを批判するのは失当であり、批評業界では一般的な構文だと言わざるを得なくなるでしょう。

 「○○とは」という文章はたくさん見つかりました。以下に列挙しますが、先に私の結論を述べてしまいますと、東が「○○とは」という構文を使うのは、その概念の定義や中心的な意味を説明するときにほぼ限られていました。具体例は以下のとおりです。

ダークツーリズムとは、イギリスの観光学者が十五年ほどまえに提案した概念で、戦争や災害など「悲劇の地」を観光の対象とする新しい実践のことを指す。

最善説とは、「世界は最善であり、悪の事実にもかかわらず合目的的であり、有限な諸事物の価値は、普遍的全体を実現する手段として肯定されるというテーゼ」のことである。

知識人たちは、あらゆる学問領域を横断して、人間とはなにか、理性とはなにか、文明とはなにかといった定義そのものを根底から再構築する必要に迫られていた。

 上の引用文から分かるのは、「○○とはなにか」が定義を問う構文だと東が明確に認識しているということです。

(ヘーゲルによれば)つまりは国家とは、事実の産物というより、なによりもまず意識の産物なのだ。

括弧内は筆者。以下同じ。

ヘーゲルの考えでは、人間とは、みずからの存在を賭けて他人の承認を求め、環境を変革し続ける精神的な存在にほかならない。

(ヘーゲルによれば)国家とは市民社会の自己意識である。

マルチチュードとは要は反体制運動や市民運動のことだ

ネグリたちは、マルチチュードとは、まさにその分割をしない運動のことだ主張している。

否定神学とは、もともとはキリスト教神学のひとつの潮流を指す言葉で、その名のとおり神の存在を否定表現(~ではない)の積み上げで証明しようとする企てを意味する。

(『存在論的、郵便的』)の文脈では、「否定神学的」とは、否定を媒介とした存在証明の論理、たとえば、「他者は存在しないことによって存在する」や「外部は存在しないことによって存在する」といった論理を幅広く形容する言葉として使われている。

郵便とはここでは(『存在論的、郵便的』では)、あるものをある場所にきちんと届けるシステムを指すのではなく、むしろ、誤配すなわち配達の失敗や予期しないコミュニケーションの可能性を多く含む状態という意味で使われている。

ここで(ホッブズやロックらを魅了した、社会の起源をめぐる)「神話」とは、ある洞察の論理的な展開を、あたかも歴史的な展開であるかのように見なして再構成する、物語風の記述形式を意味している。

(ルソーの言う)憐みとは、「われわれが苦しんでいる人々を見て、よく考えもしないでわれわれを助けに向かわせる」ものであり、「各個人において自己愛の活動を和らげ、種全体の相互保存に協力している」働きである。

「」内はルソーからの引用

上野の定義では、家族とは「性と生殖を統制する社会領域」のことである。

散種とは精子の放出の意味である。

 以上のように、東は(意外にも)、「○○とは」をきわめて普通の用法で使っていることが分かります。教科書どおりのオーソドックスな文章の書き方です。その概念の一般的な定義や意味を説明するとき、あるいは過去の哲学者がどのような意味でその言葉を用いたかを客観的に説明する際に、東は「○○とは」という構文を使います。そこに自分の主張を乗せることはほとんどしません。近内とは対照的です。近内は「○○とは~~である」という構文に乗せて自分の主張をどんどん繰り出していきます。

愛とは「だったことになる」という形式の跳躍の別名です。

『利他・ケア・傷の倫理学』

文明とは、世界の傷つきやすさのことである。

利他とはシステムのバグである。

 このような表現を指して、私は「定義文の濫用」だと批判したわけです。そして今回確認できたことは、東浩紀は抑制的に、定義文はその用法から外れないように、ちゃんと正確に使っているということです。

 ただ一か所だけ、東が「○○とは」に自分の主張を乗せた文がありました。

郵便的連帯とは家族的連帯である。

 このように宣言した後で、東は「家族とはなにか」という考察に進んでいきます。ここでは、「郵便的連帯とは家族的連帯である」ととりあえず言ってみただけという感じです。これは定義でもないですし、なにかの結論でもありません。そもそもこの一文は第2部「家族の哲学」に出てくるものですが、東自身が、これは草稿にすぎず、まとまった議論にはなっていないと認めています。

議論の飛躍や省略が随所にある。なによりも、哲学の論文というより、むしろ文芸批評やエッセイに近い文体で記されている。

 このように断った中でなければ、「郵便的連帯とは家族的連帯である」などとは書けなかったわけです。このような文章は哲学の論文の文体ではないと東自身が認めているのです。

 以上が私の調査結果です。どうやら近内の文章に感じた私の違和感は勘違いではなかったようです。

 ところで、今回東浩紀の文章を読み直してみて気付いたのは、東がじつに丁寧に接続詞を付けていることです。読みやすさに最大限配慮していることが分かります。

東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』より

 東の文章には癖がないと言われています。目立った個性はありませんが、ただひたすら読みやすく、論理を掴みやすく仕上がっています。無駄な遠回りもしませんし、必要以上に難解な用語を用いたり込み入ったロジックに頼ることもしません。この平易な文章を書くことがいかに優れた能力なのか、読者はなかなか気づきにくいと思います。しかし、こうしてちょっと精読してみると、細かいところまでよく神経を使って書いていることが分かってきます。改めて東浩紀の文章力に感心しました。

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