東浩紀は「○○とは」をどのように使用しているか ~『観光客の哲学』再読
今回は前回の記事の続きです。前回の記事はこちら。
近内悠太『利他・ケア・傷の倫理学』には、「○○とは~~である。」という構文がやたらと頻出します。普通は言葉の定義を述べる構文のはずですが、近内はその用法を逸脱していると思いましたので、批判的に検討したのでした。
ところで、そういえば、要約モンスターとして知られる東浩紀は「○○とは~~である」という構文をどのように使用していたっけ?と気になってきました。「要するに」とか「つまり」という要約語を多用する東ですから、「○○とは~~である」という構文もよく使っているような印象があります。かつて批評家の左藤青(森脇透青)も東の要約文体を次のように述べていました。
東の要約は恣意的であると注意しているわけです。であれば、「○○とは~~である」という構文も同様の使い方をしているのではないか。そう思って調べてみたのが今回の記事になります。『観光客の哲学』から「○○とは」という文章をピックアップし、どのような用法で使われているか確認しました。もし東も近内のような使い方をしているのであれば、近内だけを批判するのは失当であり、批評業界では一般的な構文だと言わざるを得なくなるでしょう。
「○○とは」という文章はたくさん見つかりました。以下に列挙しますが、先に私の結論を述べてしまいますと、東が「○○とは」という構文を使うのは、その概念の定義や中心的な意味を説明するときにほぼ限られていました。具体例は以下のとおりです。
上の引用文から分かるのは、「○○とはなにか」が定義を問う構文だと東が明確に認識しているということです。
以上のように、東は(意外にも)、「○○とは」をきわめて普通の用法で使っていることが分かります。教科書どおりのオーソドックスな文章の書き方です。その概念の一般的な定義や意味を説明するとき、あるいは過去の哲学者がどのような意味でその言葉を用いたかを客観的に説明する際に、東は「○○とは」という構文を使います。そこに自分の主張を乗せることはほとんどしません。近内とは対照的です。近内は「○○とは~~である」という構文に乗せて自分の主張をどんどん繰り出していきます。
このような表現を指して、私は「定義文の濫用」だと批判したわけです。そして今回確認できたことは、東浩紀は抑制的に、定義文はその用法から外れないように、ちゃんと正確に使っているということです。
ただ一か所だけ、東が「○○とは」に自分の主張を乗せた文がありました。
このように宣言した後で、東は「家族とはなにか」という考察に進んでいきます。ここでは、「郵便的連帯とは家族的連帯である」ととりあえず言ってみただけという感じです。これは定義でもないですし、なにかの結論でもありません。そもそもこの一文は第2部「家族の哲学」に出てくるものですが、東自身が、これは草稿にすぎず、まとまった議論にはなっていないと認めています。
このように断った中でなければ、「郵便的連帯とは家族的連帯である」などとは書けなかったわけです。このような文章は哲学の論文の文体ではないと東自身が認めているのです。
以上が私の調査結果です。どうやら近内の文章に感じた私の違和感は勘違いではなかったようです。
ところで、今回東浩紀の文章を読み直してみて気付いたのは、東がじつに丁寧に接続詞を付けていることです。読みやすさに最大限配慮していることが分かります。
東の文章には癖がないと言われています。目立った個性はありませんが、ただひたすら読みやすく、論理を掴みやすく仕上がっています。無駄な遠回りもしませんし、必要以上に難解な用語を用いたり込み入ったロジックに頼ることもしません。この平易な文章を書くことがいかに優れた能力なのか、読者はなかなか気づきにくいと思います。しかし、こうしてちょっと精読してみると、細かいところまでよく神経を使って書いていることが分かってきます。改めて東浩紀の文章力に感心しました。
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