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#600 イヤな男の特徴は、明治の頃から変わってない

それでは今日も山田美妙の『花ぐるま』を読んでいきたいと思います。

第十一回は、ある待合の奥二階に男女二人が差し向かいに座っている場面から始まります。夜は11時過ぎ。ひとりは、新聞記者であり私犯法の教師である杉田先生。もうひとりは、18、9歳の女性です。杉田先生がタバコに火をつける時、「つけてくれる人もいないのか」と言うと、女性は「あの子につけてもらいなさいましよ」と何やら重たい雰囲気です。

「はアイ/\、そンなに否[イヤ]なら付けて貰[モラ]ふまいさ」。敵し難[カ]ねて杉田も独[ヒトリ]で吸付[スイツ]けましたが、取つてかゝる処が有りませんので仕方なく陣腐[チンプ]な手段[テダテ]﹆烟[ケムリ]をふッと薫[カオル]に吹付[フキツ]けました。
「邪見[ジャケン]ですねエ」、言ッて見上げたその笑顔!
「はイ邪見ですとも。けれど此人[コノヒト]よりは邪見ぢや無いからね」。
膝頭[ヒザカシラ]を突かれても平気です﹆ ー
「おや何故[ナゼ]あたしが。宜[ヨロシ]う厶[ゴザ]いますよ。たんと御[オ]いぢめなさい」。
「邪見ぢや無いか、肝心の話になると挨拶をしないでさ。え、薫[カオル]、ぢやア無かッた阿華[オハナ]、阿華さんいゝや何[ド]うして阿華さま」…
「おほゝゝゝ」
たちまちに男の気はあらたまりました﹆ ー
「これは打明[ウチア]けた噺[ハナシ]だがね何[ナニ]もあンな美佐雄[ミサオ]ばかりを左様[ソウ]贔屓して居たッて始まらないぢや無いか。ちッとは私[ワタシ]の心をも…今まで随分御前[オマエ]に目を掛けた…否[イヤ]さ、恩を恩にかけるンぢやないが、ちッとは、ねエ」…
あら、恩を鼻にする粋人[スイジン]!
いや御手際[オテギワ]ハ御上手[オジョウズ]です。
「御前[オマエ]がはじめて左褄[ヒダリヅマ]で推出[オシダ]した時わたしは新聞に何と出してやッたえ。忘れは為[シ]まい。やれ孝行な芸妓[ゲイシャ]だの、やれ神妙な女だのと針ほどの事で棒ほどにして書立[カキタ]てゝ、また御前を段々世の中へ出してやッたンぢや無いか。いつかだッて御覧、御前が行[ユ]きたいッてエから鹿鳴館[ロクメイカン]の演芸矯風会[エンゲイキョウフウカイ]へつれて行ッて、さアあのとほり面皮[メンピ]を欠いてしまッたぢや無いか」。
まことに御手柄至極[オテガラシゴク]のはなしです。

こういうネチネチしたこと言う男、今もいますよねぇ〜

鹿鳴館は、1883(明治16)年に日本の外務卿・井上馨(1836-1915)による欧化政策の一環として建設された西洋館です。国賓や外国の外交官を接待するため、外国との社交場として使用されました。1890(明治23)年からは華族会館として使用されるようになり、1941(昭和16)年に取り壊されました。

「従来の弊風の改善、脚本作者の地位の向上、新劇場の建設」という3点がおもな目的で1886(明治19)年に、末松謙澄(1855-1920)の主唱によって、依田学海(1834-1909)や福地桜痴(1841-1906)などの識者と、伊藤博文(1841-1909)をはじめとする政財界人の協力によって「演劇改良会」が創立されました。しかし、会員の多くが欧化主義に駆られていたため、歌舞伎などの演劇の本質にかかわる要素の廃止を無造作に提唱したり、伝承された脚本や演技に対する無理解を露呈するなど妥当性を欠く部分が多く、結果、第一次伊藤内閣の退陣とともに1888(明治21)年には自然消滅してしまいました。しかし、この会の設立を契機として演劇論が諸家の間で交わされるようになり、同じ年の1888(明治21)年に「演劇矯風会」へと改組されました。ちなみに『花ぐるま』も1888(明治21)年の作品です。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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