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#640 刀を持って近寄る夫の枕元

それでは今日も山田美妙の『蝴蝶』を読んでいきたいと思います。

月が山にかかっている二十三夜、すこし前まで降り続いた五月雨、かよわい風に梢の雫も落ちてまた雨となります。貧しい草の屋が建っており、壁に矢じりを打ち付けて衣服が吊るされています。時は夜更け…ひとりの男と、ひとりの女が座っています。男は二郎春風、女は蝴蝶です。夫婦となって三年ほど、ここで二郎春風は衝撃の告白をします。自分は、平家の譜代ではなく、源氏の忍びの者である、と。蝴蝶は答えが出ません。女であるが武家の片端、男であるが帝の怨敵、おのれっ二郎!夫を殺す罪…これも帝のため!

殺そうと心は決めても猶[ナオ]何とはなしに今すこし物思[モノオモイ]に胸を悩ませたくて更にまた持った刀を敷き隠して筵[ムシロ]にすわり、
「殺さりょうとも知ろし召さでいぎたのう……宿世[スクセ]あやしき縁[エニ]しかな。縁しかなッ!源氏より忍び来[コ]し人。さしも吾がその時に床[ユカ]しとも思わずもあらば妹背[イモセ]の契[チギリ]は結ぶまじきに﹆あなや、おさな心の女子[オナゴ]の浅ましさよ」。
けれど平常[ツネ]からやさしい二郎の情愛を思出[オモイイダ]せば腸[ハラワタ]は実に猶切れるようです。

「妹背の契」とは、夫婦の関係という意味です。

「ねんごろに情こまやかなる人、その人を殺そうとや、その人のためには袖捲[ソデマ]きし、この懐かしき手をもて。なつかしき手、昨日まではぬしの病[ヤマイ]を撫でし手も、あわれ、今こそはぬしを切る、ぬしの身を裂く手になん。浅ましき妹背かな。友白髪[トモシラガ]まで契るべきを……浮世の道こそつれなけれ」。
今は咽[ムセ]ぶばかりです﹆が、悟られまいと歯をくいしばり、
「夫を殺せし妻ありきと後[ノチ]の人にも歌われん。罪の程[ホド]など知らざるべき﹆知りつゝもなす心根[ココロネ]、のう、ねぶらせたまう二郎ぬし、酌知[クミシ]らせて……酌知らせて……のう、二郎ぬしィ」。
首を傾けて考沈[カンガエシズ]み、
「ただこの身には怨もなき人を墓[ハカ]なくも殺さんは、思えばいとおし。さりとも吾も心をひるがえして……さらば妹背の契りも破れず……夫の心のまゝにしょうか。夫の心の儘[ママ]にして……されどいたいけなる御門[ミカド]の御上[オンウエ]、それも扨[サテ]おン惨[イタ]まし。壇の浦の船にても蝴蝶と宣[ノタマ]わせし事さえありき。その御恵[オンメグミ]の程し思えば……あら、げによ、我ながら空……空恐ろしき﹆などてさる正[マサ]なき心」。
雨と降る涙をあらあらしく拭いながら屹[キッ]と戸の外を眺[ナガム]れば、吾を促し顔です、はや闇は次第に影を潜め始めていて。
「夜明けなば……こよいは再び得難かり。あゝ心、などて手弱[タヨワ]き。あな、手まで、など震う」。
たしかに思案を定めて刀を抜持[ヌキモ]ち、片唾[カタズ]を呑んで近寄る夫の枕もと﹆はッし、空蝉[ウツセミ]の命、知らぬが仏の寝顔のやさしさ。「この優しき顔なるを、このやさしき人なるを……せめてこの身を愛[メ]づるそのやさしき心を御門にまいらせたらんには」。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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