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#1254 ガランとお才ひとり、寂しさ心細さに堪えかねて……

それでは今日も尾崎紅葉の『三人妻』を読んでいきたいと思います。

お才はギョッとするが落ち着いて、まずご無沙汰の挨拶をして、驚く様子を見せず、余五郎が来ないことを見抜きながらも、余五郎は何処にと尋ねると、山瀬はクックッと笑い出し、野暮な!それほどの事が知れぬか!と突き返します。お才は言われるままに野暮になって、占い師ではないので、そのようなことが私に知れますものをと言います。ご用の次第を聞かせたまえと畏まると、山瀬はいよいよ笑って、かの一件がまたバレたぞと言い飛ばし、お才は黙然として俯けば、山瀬は力を入れた声で、それほどあの男がいいのかと呆れて感心されることに、お才は赤面して、このあいだのご親切を無にするではなけれど、二度の不埒、あなたには面目もござんせんと萎れます。山瀬は、イヤな男(余五郎)を甘く見過ぎて、好いた男(菊住)に過ぎた仕方は、あまりといえば義理をよそにして、念の入りたる踏みつけ。仏でも堪忍しないだろう。お才は静かにおもてをあげて、仰せられるいちいち胸にこたえて、身の不埒はいまさら言い解くべきようもなし。余五郎の思し召すままにこの身をいかようにもあそばさるべしと、やや青ざめたれど声は朗らかで少しも悪びれていません。山瀬はお才の態度を見て、恩を忘れ義理を捨てた不埒で憎い女だが殊勝さが気に入って、何処へでも行って好きな男と添えと放してやりたいが、世間に出して恥辱を曝すのは葛城の名折れとなる。思案ののち、山瀬は、今からお前の住まいはここだと言います。家財は明日運ばせよう。お才は思いのほかなる処置に呆れ、さすがに思い乱れて、生き甲斐の楽しみなきを心細く、今朝までの身を思い出し、涙が胸の内を流れます。

山瀬は手を拍鳴[ウチナ]らして清浦を呼び、老爺[オヤジ]をこれへとあれば、直[ジキ]に座敷の外[オモテ]に現はれて、手を支[ツカ]へたるは、今日からの爨奴[メシタキオトコ]。山瀬はお才に引合[ヒキア]はせて、台所は此[コノ]老爺[オヤジ]に委[マカ]せらるべし。此方[コナタ]は旦那様なるぞとあれば、老爺[オヤジ]は諄々[クドクド]挨拶して立ちけり。
身上[ミノウエ]を聴かば憐れなるべく、見そぼらしき老爺[オヤジ]を見るに、お才は憂[ウキ]を累[カサ]ぬる心地して、罪人[トガニン]には過分なる午餉[ヒル]の膳立[ゼンダテ]、一銚子[ヒトチョウシ]つきたれば、飲めども酔[ヨ]ひはせず。二時頃になりて、玄関にニ三人の声するを、誰か来[キタ]りたると思ひしに、頓[ヤガ]て引合[ヒキア]はさるれば、我を張番[ハリバン]の夫婦もの。玄関側の一間[ヒトマ]に世帯道具兒込[カキコ]みて、鬩[ヒシメ]く折から又[マタ]人の来[キタ]りぬ。
挨拶に出[イ]づるを見れば、又これに附絡[ツキマト]はる〻大谷伝内、御寝道具[オネドウグ]其外[ソノホカ]持参いたして、お次間[ツギノマ]に差置[サシオ]きましたといふ。
仲は如何[イカガ]せしと尋ぬれば、御本家よりの御指図にて、今朝ほどお暇[ヒマ]が出まして、槇も同様にござりまする。私[ワタク]しめは御縁がござりまして、又[マタ]此方[コチラ]に参りましたれば、爾来[コレマデ]通りお目をお懸け下されまするやうにと、底意[ソコイ]ありげに聞こえて勃然[ムッ]とせしが、今の身上[ミノウエ]にと辛抱して済ましぬ。
山瀬は清浦を率[ツ]れて、三時頃に帰りける跡[アト]は、広間に道具少[スクナ]く、空然[ガラン]とお才一人[ヒトリ]、寂[サビシ]さ心細さに堪へかねて、心を慰めむよしもがなと椽[エン]に立出[タチイ]づれば、落日[ラクジツ]風[カゼ]急にして椿[ツバキ]寒く、何といふ鳥の啼[ナク]音[ネ]やら。

というところで、「後編その二十一」が終了します!

さっそく「後編その二十二」へと移りたいのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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