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#633 足をすべらせ、まっさかさまに!

それでは今日も山田美妙の『蝴蝶』を読んでいきたいと思います。

海は軍船を床として、討ち死にした武士の骸が幾百と漂っています。猛将・平教経が源氏の旗下へ飛び込み、敵を蹴散らします。源義経は危ういと思い、旗下へ引き返しましたが、反動の力すさまじく、敵は安徳天皇が乗った御座船に近寄ります。安徳帝の女房どもは泣きたてて取りすがり、平家の柱石といわれた平知盛の唇もわななきます。知盛は拝謁するや否や引き返して敵に近付き士卒を励まします。敵はさらに御座船に近づきます。矢が雨のように降ってきます。いくさの様子を見ていた二位尼は御座船の奥の間へ主要な八人を呼び寄せます。八人のひとりである源典侍に従っている十七の官女・蝴蝶は立ち聞きをやめて、船の端に佇み四方を見まわし、再び奥へ戻ると、二位尼が安徳帝の手を引いて立っています。安徳帝が被っている衣を取り除けると、知盛の息子で蝴蝶は驚きます。二位尼に安徳帝のことを尋ねると、母の健礼門院とともに逃げたと言います。横の船端から見ると、源典侍が小舟に乗ってはるか向こうへ漕いでいきます。すでに前後左右はみな源氏です。

典侍の方の船に心を注[ム]けると同時に身の周囲に敵が来るかと気を配る混雑の間[カン]、ことにあちこちに簇[ムラ]がっている敵の眼を掠[カス]めることですから自然船も典侍の船のすぐ跡に跟[ツ]く事が出来ません。或[アルイ]は右へ駈隔[カケヘダ]てられたり、あるいは左へ迂回させられたり、終[ツイ]に、あゝ、やゝ敵の眼の遠くなッた処へ来て、やれ安心と思うと一途[イッショ]に典侍の方の船の影は……折角の骨折[ホネオリ]も水の泡……どこへ行ッたか見えません。弱りました、これには蝴蝶も。船はやゝ見れば苫屋[トマヤ]の二三軒ある磯の辺[ベ]の近くへ来ています。傍[ソバ]には漂泊している、主[ヌシ]のない兵船[イクサブネ]も一二艘あります。

苫屋とは、茅を編んで屋根をふいた粗末な家のことです。

「のう、辛[カラ]く命は助かりつ﹆されどこれより如何[イカ]にせん」。
話掛けるという風でもなくて蝴蝶は呟きました。
「如何にせん」。「何をか宣[ノタマ]う。漕[コギ]もて来ぬる骨折の賃[シロ]、いざおのれに賜わずや」。
頬髯[ホオヒゲ]を撫でながら宛[サ]も傲慢な体[テイ]でしかも冷笑というような気色[ケシキ]をあらわして言います。
蝴蝶は流石に真面目です。
「何を」。
「何をなンどと」、傍へすりより、「骨折の賃にこそ。されど玉にも黄金[コガネ]にもあらず、ただわが妻になりたまえ。こやなどて駭[オドロ]きたまう、あたりに人の見る目もなきを」。
思いの外[ホカ]の無礼な言葉、婦人[オンナ]ながらも軍馬の間[カン]を経て来た蝴蝶、これには赫[カッ]となりました。物をも言わず睨付[ニラミツ]けるを雑兵は更にかまいません、袿衣[ウチギ]の袖を取ろうとする﹆今は蝴蝶もこらえかねて、振払[フリハラ]うや否[イナ]や、身を躍らせて近い処の船に飛込もうとはしましたが、運わるく足が滑りました。滑りました、真逆[マッサカ]さま……跡は水煙[ミズケブリ]と呆[アキ]れた雑兵の顔ばかりです。

というところで、「その一」が終了します!

さっそく「その二」へと移りたいのですが…

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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