#235 ちょっとだけ部活の話
今日も坪内逍遥の『当世書生気質』を読んでいきたいと思います。
第十六回は、静岡で代言人として活躍している守山くんが東京に戻ってきたタイミングで、彼の仮住まいを倉瀬くんが訪れるところから始まります。守山くんが最近の学校の様子を尋ねると、倉瀬くんは、政談は衰退したが腕白は盛んになり、撃剣が流行していると答えます。それに対して、守山くんは、東京大学をならってボート・レースを始めたらいいのにと答えます。
明治維新による西洋軍制の導入によって活躍の場を失った剣術指導者たちは生活の糧を失い困窮していました。これを憂えた旧江戸幕府の講武所剣術教授方であった榊原鍵吉(1830-1894)が、相撲興行を参考にして剣術を興行とすることを東京府知事の大久保一翁(1818-1888)に提言し、1873(明治6)年、東京浅草の左衛門河岸(現在の浅草橋一丁目)にて10日間の撃剣興行を行ないました。土俵のような試合場で、派手な衣装の選手が東西に分かれて戦った試合は連日満員御礼で、これを機に撃剣興行はブームになり、番付や錦絵も売り出されました。その後、撃剣興行は、東京府内で37ヶ所、さらに名古屋、久留米、大阪など全国各地に広まったのですが、興行の乱立によって質が低下、また、政治運動の演説会の人集めのために開かれる興行も現れたため、いくつかの県で撃剣興行は禁止されることになりました。それから1877(明治10)年頃に復活し始めましたが、1879(明治12)年、警視庁に撃剣世話掛が創設され、巡査の撃剣稽古が奨励されるようになると、撃剣興行の剣客たちは警察に登用されるようになりました。その結果、実力のある剣客を警察に引き抜かれた撃剣会は興行的魅力がなくなり、撃剣興行は衰退していきました。
また、東京大学では、1883(明治16)年を境に様々なクラブが組織されはじめ、翌1884(明治17)年にはその統括組織で、後の帝国大学漕艇部の前身となる「走舸組[ソウカグミ]」が結成されました。日本で最も古い部活の誕生です。1886(明治19)年、 大学令が改正され、 東京大学は帝国大学と改められると、学生は運動部を中心とした校友会組織「運動会」を設立します。身体の健全を維持するのに必要のみならず、精神の健全なる発達を目的に奨励された「運動会」は、漕艇部、 陸上運動部、球戯部、水泳部、 柔道部、弓術部、そして撃剣部の7部からなる統括組織でした。
「運動会」設立の前年の1885(明治18)年の春、ハイカラで人気の高かった漕艇の大会が、隅田川で行なわれます。それが帝国大学競漕大会です。帝大生だけでも230人以上が出漕した大会は、大いに盛り上がり、以後毎年「運動会」の花形となります。それから20年後の1905(明治38)年に始まったのが、早慶レガッタです。戦争や隅田川の水質悪化や新型コロナなどを乗り越え、今年(2021)の4月18日、記念すべき第90回が開催されました。
ということで、再び、『当世書生気質』に戻りたいのですが…
それはまた明日、近代でお会いしましょう!