見出し画像

#309 美術は感情でもって意を詮索するもの

二葉亭四迷の『小説総論』を読んでいるのですが、これが頗る難しい!昨日の続きには、こんなことが書かれています。

偶然の中に於て自然を穿鑿し種々の中に於て一致を穿鑿するは、性質の需要とて人間にはなくて叶わぬものなり。穿鑿といえど為方[シカタ]に両様あり。一は智識を以て理会する学問上の穿鑿、一は感情を以て感得する美術上の穿鑿是なり。

四迷は、すでに「右脳的」「左脳的」な機能的分類をおこなっていますね。

智識は素と感情の変形、俗に所謂智識感情とは、古参の感情新参の感情といえることなりなんぞと論じ出しては面倒臭く、結句迷惑[マゴツキ]の種を蒔くようなもの。そこで使いなれた智識感情といえる語を用いていわんには、大凡世の中万端の事智識ばかりでもゆかねば又感情ばかりでも埒明かず。二二ンが四といえることは智識でこそ合点すべけれど、能く人の言うことながら、清元[キヨモト]は意気で常磐津[トキワズ]は身[ミ]があるといえることは感情ならでは解[ワカ]らぬことなり。智識の眼より見るときは、清元にもあれ常磐津にもあれ凡そ唱歌といえるものは皆人間の声に調子を付けしものにて、其調子に身の有るものは常磐津となり意気なものは清元となると、先ず斯様に言わねばならぬ筈。されど若し其の身のある調子とか意気な調子とかいうものは如何なもので御座る、拙者未だ之を食うたことは御座らぬと、剽軽者あって問を起したらんには、よしや富婁那[フルナ]ふるなの弁ありて一年三百六十日饒舌[シャベ]り続けに饒舌りしとて此返答は為切[シキ]れまじ。さる無駄口に暇潰[ヒマツブ]さんより手取疾[テットリバヤ]く清元と常磐津とを語り較べて聞かすが可[ヨ]し。其人聾にあらざるよりは、手を拍ってナルといわんは必定。是れ必竟するに清元常磐津直接に聞手の感情の下に働き、其人の感動(インスピレーション)を喚起し、斯くて人の扶助を待たずして自ら能く説明すればなり。之を某学士の言葉を仮りていわば、是れ物の意保合の中に見われしものというべき乎。

「形」と「意」、「偶然」と「自然」、そして「智識」と「感情」、まるで哲学や脳神経学の本を読んでいるようですが、この論文のタイトルは『小説総論』です!w

難しすぎて、読むのを諦めそうになっていますがw、とにかく、二葉亭四迷は「小説について」書いているんです!

然るに意気と身といえる意は天下の意にして一二唱歌の私有にはあらず。但唱歌は天下の意を採って之に声の形を付し以て一箇の現象とならしめしまでなり。されば意の未だ唱歌に見われぬ前には宇宙間の森羅万象の中にあるには相違なけれど、或は偶然の形に妨げられ或は他の意と混淆しありて容易には解[ワカ]るものにあらず。斯程[カホド]解らぬ無形の意を只一の感動(インスピレーション)に由って感得し、之に唱歌といえる形を付して尋常の人にも容易に感得し得らるるようになせしは、是れ美術の功なり。故曰、美術は感情を以て意を穿鑿するものなり。

ようやく、話の筋が「小説」に近づいてきましたね!w

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集