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#568 さびれた町のさびれた人々

それでは今日も山田美妙の『花ぐるま』を読んでいきたいと思います。

昼間は学生、夜は人力車夫の力造さんですが、同級生は、力造さんが人力車夫をしていることを知りません。薄々感づいているのは、下宿屋の主人で、どうやら、風の便りでそのことを知ったようです。品行が良く、下宿料を滞納しない力造さんが、夜な夜な働いていることを知って、ますます尊く思い、下宿料を安くしてやりたいとも思い始めます。力造さんの下宿は本郷にあり、人に悟られぬように、芝のほうへ出掛けてから、服を着替えて車夫となります。暇さえあれば、法律雑誌を読む姿に車宿の親方さえ感服して人力車の借用代を安くさせたほどです。その日も車宿へ出掛け、雑誌を読みながら待っていると、近所の家から依頼が来ます。力造さんの他には誰もいなかったため、急いで身支度をします。身を切り刻むような寒さで、すでにほとんどの家が戸を下ろしています。

二間間口[ニケンマグチ]の一間は揚戸[アゲド]で仕切り、その揚戸の上を一面[イチメン]障子にして其処[ソコ]へ筆太[フデブト]に「油」と書き、猶[ナオ]大きな黒い蠟燭[ロウソク]が「正銘[ショウメイ]いとじん」といふ六字の銘[メイ]を胸にして居る油屋の看板の工合[グアイ]も何処[ドコ]やら凄味[スゴミ]を帯びて居るやうで、また牛乳入[ギュウニュウイレ]見たやうな鉄葉[ブリキ]製の手ランプに殺風景な糸心[イトジン]を入れて風に吹かせながら店の蜜柑[ミカン]や乾栗[カチグリ]を隠現出没[インケンシュツボツ]させて居る水菓子屋の様[サマ]も何となく「あれさびた」と名唱[ナノリ]掛けるやうです。

「いとじん」とは木綿糸を芯にした蝋燭のことです。

最近、聞かなくなった言葉のひとつが「水菓子屋」で、「水菓子屋」とは「果物屋」のことです。「果物屋」さん自体が少なくなったので、仕方ないかもしれませんね。

鮪[マグロ]の廃肉[アラ]か、鱈[タラ]の切落[キリオト]しか、ぽた/\と水の垂れる竹皮包[タケノカワヅツミ]を熊鷹[クマタカ]のやうな右の手へ摑[ツカ]み、我楽多[ガラクタ]道具屋の糶売[セリウリ]にも落第したらしい古肩掛[フルカタカケ]に首を潜らせながら縮[スク]んで家へ帰る日雇取[ヒヨウト]りの老爺[オヤジ]のありさま﹆あるひは又樫歯[カシバ]の下駄をかち/\と弾[ハジ]かせながら鉦太鼓[カネタイコ]で尋ねるほど些[スコ]しばかりのアサリの剥身[ムキミ]を孤城落日[コジョウラクジツ]の目籠[メカゴ]の中へ入れ右の手をば水鼻[ミズハナ]を手繰[タグリ]捨てる役につかッて行[ユ]く老母[ロウボ]の体[テイ]、すべて見るものとして「淋[サミ]しさ」の固[カタ]まりで無いのはありません。無論自然の景[ケイ]、言ふだけ気が利きません。自然の景 あれさびて居る処にあれさびぬ人造[ジンゾウ]の景は少[スクナ]いものです。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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