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#029 美術とは何ぞや!

アーネスト・フェノロサは、政治学の教授として、モースからスカウトされ、日本にやってきましたが、彼はアメリカにいた頃から美術への関心が深かったため、来日してからも、美術行政・文化財保護に力を注ぎました。

坪内逍遥の『小説神髄』には、「米国の博識[モノシリ]」こと、アーネスト・フェノロサの美術講演の一部が載っています。これは、フェノロサが、#025で少しだけ紹介した「竜池会」の依頼で講演したもので、のちに大森惟中[イチュウ](1844-1908)が翻訳筆記したものが『美術真説」(1882[明治15])というタイトルで出版されました。

フェノロサは、次のように述べています。

世界の開花は人力の効績[コウセキ]に外[ホカ]ならず。而[シコウ]して人力の効績にて二種あり。曰く須用、曰く装飾。須用は偏[ヒトエ]に人生必需の器用を供するを目的とし、装飾は人の心目を娯楽し気格を高尚にするを以て目的となす。この装飾を名づけて美術と称す。故に美術は専ら装飾を主脳となすを以て須用ならずとなす可[ベカ]らず。心目を娯楽し気格を高尚にするは豈[ア]に人間社会の一緊要事ならずや。之れを要するに二者皆社会に欠くべからず。而[シコウ]してその異なる所を睹[ミ]るに、須用は真に実用に適するが故に善美となり、美術は善美なるが故に実用に適するに至るの差あり。譬へばこの小刀は甚だ善美なり、即ち須要なるが故に善美なり。彼の書画は須要なり、即ち善美にして気格を高尚にするが故に須要なり。是れに由て之れを観れば、美術に於て善美となす所のものはその美術たる所以の本旨たるや明[アキラ]けし…

フェノロサは、物作りを「須用」と「装飾」に分け、「装飾」のほうを美術であると言っています。そして、キーワードは、目と心を楽しませ、気持ちを高める「善美」であり、「須用」は、小刀のように、実生活に欠かせないから「善美」であり、「装飾」=「美術」は、書画のように、「善美」であるから実生活に欠かせないと言っています。

『小説神髄』は、この後、別の人の引用をつづけます。

また他の某氏のいはく「美術とは人文発育の妙機妙用これなり。何を以てか之れを謂ふ、美術は人の心目を娯楽し気格を高尚にするを以て目的となせばなり。心目を娯楽するが故に友愛温厚の風を起し、気格高尚なるが故に貪吝刻薄の状を伏す。その製形に顕はるるや絵画・彫刻・陶磁・漆器等の神韻雅致となり、その音声姿態に発するや詩歌・音楽・舞蹈等の幽趣佳境となる。夫れ人幽趣佳境に逢着し神韻雅致に対峙するや、悠然として清絶高遠の妙想を感起せざるはなし。是れ之れを美術の妙機妙用と謂ふ。邦国の文明また実にこの機用に起因すと謂ふべきなり。美術の事たる豈に亦た社会の一大緊要事ならざらむや…」

この「他の某氏」の正体も知られていて、仏教学者の大内青巒[セイラン](1845-1918)です。上の文章は、「竜池会」が創刊した『大日本美術新報』第1号(1883[明治16]年11月)に掲載された「大日本美術新報緒言」の一節です。

これらをもとに、逍遥は、自分の「美術」観を語り始めるのですが…

それは、また明日、近代でお会いしましょう!

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