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#588 ちょっとだけ天気予報の話

山田美妙の『花ぐるま』には、こんな一文があります。

また日和[ヒヨリ]を逃がすまいと天気予報に充分の責任を着せ掛ける後[オク]ればせの家、思切[オモイキ]ッてばた/\煤[スス]はらひを始め出せば、早くも出入[デイリ]の蕎麦屋が夜の注文を予察[ヨサツ]します。

1861(文久元)年、イギリスの探検家であるトーマス・ライト・ブラキストン(1832-1891)が、5ヶ月間にわたる揚子江上流の探検を終えて、上海の港から箱館へ入港します。トーマスは揚子江探検記録整理のため3ヵ月間函館に滞在し、イギリスに帰国します。その後1863(文久3)年、今度は実業家として、再び箱館を訪ずれることになり、以後20年あまり滞在することになります。函館戦争(1868-1869)などの影響で実業家としての仕事は失敗しますが、彼は空いた時間を利用して、1864(元治元)年から降雨・降雪日数を観測し、1868(慶応4)年からは気圧・気温も併せて観測しました。このブラキストンから測量・測候技術を学んだのが福士成豊(1838-1922)です。

福士は、ブラキストンから観測を引き継ぎ、船場町(現在の函館市末広町)にあった自宅に観測機器を設置して、これを「函館気候測量所」とし、1872(明治5)年8月26日から観測を開始しました。これが日本初の気象観測所における気象観測の始まりです。

その前年の1871(明治4)年、蒸気船クーリエ号にて極東を来航し、その船が日本に売却されることとなり、東京に下船した二等航海士がいます。のちに開成学校(現在の東京大学)でドイツ語と数学を教えた、プロシア出身のエルヴィン・クニッピング(1844-1922)です。1876(明治9)年、クニッピングは、逓信局で日本の船員を教育することになりましたが、その際、船舶から収集した気象報告や、地方測候所などの資料を調査をし、暴風警報を知らせる建白書を明治政府に提出します。

その前年の1875(明治8)年、東京にも気象台が創設されます。場所は内務省地理寮構内、現在の東京都港区虎ノ門にあるホテルオークラのあたりです。海洋学調査の探検航海を行なったイギリス船チャレンジャー号の科学部長チャールズ・トムソン(1830-1882)と海洋学研究者トーマス・ティザード(1839-1924)の指導を受け、毎日3回の公式観測を開始しました。そこに1882(明治15)年、クニッピングが入社します!1883(明治16)年2月16日午前6時から気象電報の収集が開始され、同年3月1日から天気図が作製され、毎日印刷配布が開始されました。そして同年5月26日に日本で初めての暴風警報を発令し、1884(明治17)年6月1日に日本で初めての天気予報を行ないました。これを記念して、6月1日が「気象記念日」と定められました。

毎日3回、午前6時・午後2時・午後9時に、全国の天気予報が発表されました。ちなみに、日本の記念すべき最初の天気予報は以下のようなものです。

午前6時
全国一般風ノ向キハ定リナシ天気ハ変リ易シ 但シ雨天勝チ
午後2時
変リ易キ天気ニシテ風位定ラス 且雨降ル地方モアルベシ
午後9時
中部及ビ西部ハ晴或ハ好天気ナルベシ 北部ノ一部ハ天気定ラス 一部ハ曇天又ハ烟霧ナルベシ

ということで、再び『花ぐるま』に戻りたいのですが…

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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