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#1590 イヤじゃない!決してイヤでない!
それでは今日も尾崎紅葉の『多情多恨』を読んでいきたいと思います。
柳之助は葉山の妻であるお種が苦手ですが、勇気を出して盃を差し、酌をします。それを葉山がからかいます。やがて肴を取りに行くと言ってお種が起ったので、やれ嬉しやと「ぼくはどうも窮屈でいかん、ぼくは困る」と言います。
「何が困るのだ。」
「困るなあ。」と顔ばかり顰[シカ]めて、言兼ねてゐる。
「何がさ。」
「妻君が居[オ]つちや困る!」
と一生懸命に思切つて。
「それほど困るなら引退[ヒキサ]げるけれど、然[ソ]う君のやうに、人さへ見りや毛嫌[ケギライ]をするのも困るぢやないか。何故[ナゼ]那様[ソンナ]に可厭[イヤ]なのだらう?」
「何故[ナゼ]と云つて理由は無いけれど、僕の性質なのだから。」
「性質だつたつて。蛇や蛙ぢやなし、同し人間を、然[ソ]う否[イヤ]がるとは何[ドウ]云ふものだらう。他[ホカ]の者とは違つて、私の家内だ、私の家内だけは切[セメ]て格別の御詮議に預[アズカ]りたいね。然[ソウ]でないと、種々[イロイロ]不都合な事があるものね。ちと所好[スキ]になる修行を為[シ]てくれたまへ。然[ソ]う君のやうに一国[イッコク]でも通らないよ。君は不吃不好[クワズギライ]だから困る、まあ吃[ク]つて見てさ、それで可[イ]けなかつたら、遠慮無く吐出[ハキダ]してもらはうぢやないか。何も内のお種を女房に持つてくれと言ふのぢやなし、高[タカ]が親交[ツキアッ]てもらへば可いのだ。可厭[イヤ]にした所が、苦い丸薬[ガンヤク]を嚥[ノ]むやうなものさ。そのくらゐの辛抱の出来ないことはあるまい。」
恁[コウ]して犇々[ビシビシ]責付[セメツ]けられるのも辛[ツラ]いが、今にお種が昇[アガ]つて来はせぬかと、柳之助は気が気でない、窄袴[ズボン]の衣兜[カクシ]に手を入れたり、盃を把[ト]つたり、手巾[ハンカチーフ]を摑むだり、巻莨[マキタバコ]の箱を潰したりして、急立[セキタ]つ心を萎[ナヤ]してゐる。
「然[シカ]し、如何[ドウ]あつても可厭[イヤ]だと云ふなら、為方[シカタ]が無い。」
「可厭[イヤ]ぢやない、決して可厭[イヤ]でない!」
「可厭[イヤ]でなければ、御酌[オシャク]ぐらゐに出てゐたつて可[ヨ]さゝうなものぢやないか。」
「けれども実際僕は窮屈でな。」
「その窮屈が解らないよ。」
ということで、この続きは……
また明日、近代でお会いしましょう!