見出し画像

#1264 いつ呼びにやっても何か用事があって来られぬ女

それでは今日も尾崎紅葉の『三人妻』を読んでいきたいと思います。

興津に着いて一週間ばかり、いつもと変わった珍しさに、朝起きてから、海よ浜よと黒くなって騒ぎます。鯛の捕れる沖、茸や蕨が生える山、柿栗の林、桔梗や女郎花が咲く野辺、東京の下地で食べる田舎の生蕎麦。ただ涼しさを取柄に二十日ばかりになります。別荘が建った頃から、お艶もこの夏は是非行きたいと言っていたので、差支えなければお呼び申してください。そうすれば私の気も休まり、お艶の喜びはいかばかり、と紅梅が言うと、お麻は、お艶を連れてこなかったのは、面当てがましい分け隔てしたと恨みに思うだろう。喜ぶとあれば喜ばせて心悪きことはない。飽きたところに新しい人が来たら、冴えかえりて興あるだろう。

此[コノ]次の上り汽車にて迎ひを遣れと、従者[ツキビト]の岩田といふが庭の亭[チン]にて昼寝するを喚起[ヨビオコ]し、口上[コウジョウ]言含[イイフク]めて証[シルシ]ばかりの書状[フミ]を持たせ、待[マッ]てゐてお伴[ツ]れ申せとあれば、岩田は委細畏[カシコ]まりて出発し、明[ア]くる朝まだきにお艶の家[イエ]を訪れ、此[コノ]趣きを伝へてお麻の書状[フミ]を差出[サシイダ]しぬ。
お艶は今更心轟[ムネトドロ]き、紅梅の深切[シンセツ]にも、わざ/\出懸[デガケ]に心着けてくれしは爰[ココ]ぞ。おもへば何が憎うて奥方[オクガタ]は、かほどまでにして此[コノ]身を苦[クルシ]めむとしたまふぞ。
折角の御意[ギョイ]を捂[モド]くは失礼なれど、生憎[アヤニク]ニ三日前より若様の御気分宜[ヨロシ]からず。朝夕[チョウセキ]医者に来診[ミマ]うてもらひまする仕義[シギ]なれば、よろしう奥様へ申上げて下さりまし。若様の御様子次第にて、上がりまするかも知れませぬが、何日[イツゴロ]まで御逗留遊ばします。まだお長いとは楽[タノシ]みな。定めて好地[ヨイトコロ]でござりましよ。此[コノ]暑[アツサ]に遠途[トオド]のところを御苦労でござりました。委[クワシ]くは此裏[コノウチ]にと返書[ヘンジ]を渡せば、岩田は受取りて、其日[ソノヒ]の中[ウチ]に興津に還りぬ。
心から招[ヨ]びたうて迎ひを出せしお艶ならねど、来るといふものは待たれて、お麻も気に懸けてゐたりしに、迎ひのものは素戻[スモドリ]して、寂しげに書状[フミ]のみ持ちて還りけるが、余之助の病気とあれば是非無し。私[ワタシ]とは性[ショウ]が合はぬかして、いつ呼びにやりても、何か事ありて来[コ]られぬ女[ヒト]。迎ひまで出[ダ]せしからは、此方[コナタ]の念は通じて、お前もこれで気が済むだといふもの、とお艶の書状[フミ]を紅梅に渡せば、一通[ヒトトオリ]読みて、何やら思案の躰[テイ]は、何を考ふるぞとお麻に問はれて、真実[マコト]若様の御病気か。それが疑はしくて、と岩田を呼びて様子を聞けば、早朝ゆゑ御寝[ギョシ]なりてゐらせられしにやあらむ、若様のお姿はお見うけ申さヾりしとばかり、外[ホカ]に糺[タダ]すべき手懸[テガ]かりもあらざれば、紅梅は其儘[ソノママ]口を噤[ツグ]みたれど、仍[ナオ]疑はしげに其[ソノ]書[フミ]を見返し/\、わざと思案してぞゐたりける。

というところで、「後編その二十五」が終了します。

さっそく「後編その二十六」へと移りたいのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?