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#1247 火事場で碁を打つような忙しさ

それでは今日も尾崎紅葉の『三人妻』を読んでいきたいと思います。

お才の素振りに胡乱なるところなく、十月は母親のところへ一度だけ、昔の師匠のところへ一度だけ顔出ししただけである。この二度のうちに菊住とやり取りないか伝内は疑いますが、お才の真面目さにやや心は弛みますが、油断のならない女だと、気は常に満ちています。余五郎が来た時も、お才はまったく前非のない人のごとく、馴れ馴れしく、わがままも冗談も言ううちに、余五郎も気が乗って、菊住とまだ脈の通っていることを十分に疑いながらも、こうされては悪い心地がしません。

お才は此機[コノトキ]を外さず、久しう無沙汰にせられし見舞[ミマイ]として抔[ナド]と、勝手のい〻ことをいひて、溜めておきたる品々の強請[ネダリゴト]。御機嫌麗はしき折は、餐余[クイカケ]の桃さへ王[キミ]に旨[ウマ]がらる〻例[タメシ]ありて、憎い時に物もらふよりも、可愛[カワユ]き時に遣る嬉しさ。どのやうな事を望まるゝとも、有余[アリアマ]る金銭[カネ]の幾百万分の一の、その百万分の一ほどの無心は、何の訳[ワケ]もないことゝ、いはるゝまゝに投出[ナゲダ]せし額[タカ]は、何のかのと三百円許[バカリ]。其内[ソノウチ]百円余[アマリ]は買物[カイモノ]して、残額は小箪笥[コダンス]の抽斗[ヒキダシ]に袱紗包[フクサヅツミ]にして、ちび/\と情夫[マブ]が不時[フジ]の需[モトメ]を待つ気。然[サ]りとは知らずか、近頃御前[ゴゼン]の多愛[タアイ]なさ。間男[マオトコ]するほどの女に未練遺[ノコ]して、醜[ミニク]き彼態[アノサマ]は、賢き御方[オカタ]には似合はしからぬ事とは思へど、茲[ココ]に元禄[ゲンロク]の昔を鑑[カンガ]みれば、祇園の花に酔[エイ]どれの犬武士[イヌザムライ]、醒[サ]めての後[ノチ]の大忠臣[ダイチュウシン]、大石内蔵助良雄が胸中[キョウチュウ]、その始めには測るべからず。霎時[シバラク]御前[ゴゼン]の為[セ]むやうを見ばやと控へをれば、お才は旭日[アサヒ]の昇る威勢[イキオイ]にて、目下[メシタ]の身を以て之[コ]れに逆らふは、目子勘定[メノコカンジョウ]にしても大きな損なれど、伝内は唯管[ヒタスラ]忠義張[チュウギバリ]
の魂を固[カタ]めて、そんな事は更に意と為[セ]ず、剛情[ゴウジョウ]我慢に四角張[シカクバ]るほど、いよ/\お才の眼前[メドオリ]をうるさがられ、一向寝酒[ネザケ]の御沙汰も無く、寂[サビ]しく部屋に閉籠[トジコ]もる時は、壁に向[ムカ]ひて木太刀[キダチ]を撚[ヒネ]くり、居合を抜きて慰[ナグサ]みけり。
お才は二度まで芝居茶屋にて首尾せしが、袖岡の奥二階とは世界変[カワ]りて、火事場で碁[ゴ]を打つやうな倥偬[セワシサ]。逢ふといふは名のみにて、鏡に映る影を見るも同じこと。これでは危[アヤウ]き思ひして、忍び合ふ効[カイ]無ければ、何とか外[ホカ]に旨い工夫を、二人の智恵にて案ずれど、出るには従者[トモ]を伴[ツ]るゝ身なれば何事も面倒なるに、内には伝内といふ敵役[カタキヤク]の我張[ガンバ]れば、其[ソノ]手前も気儘[キママ]には他出[デアル]き難く、八方に人目ありて晦[クラ]き事はならぬやうに、其処[ソコ]は忽[ヌカ]らぬ葛城の方寸[ホウスン]。到底[トテモ]一人の味方無しにては、奈何[ドウモ]なることにあらず、と菊住も煎じつめた処をいへば、お才も思慮[カンガエ]は同じ其事[ソノコト]にて、今までは他[ヒト]の口の脆[モロ]きを気づかひ、自分は独りどれほど苦[クルシ]みても、人は頼まぬ了簡[リョウケン]なりしが、此上[コノウエ]は是非無し、お仲を手懐[テナヅ]けて、曠[ハ]れて逢ふのは悪くはない話。

というところで、「後編その十八」が終了します!

さっそく「後編その十九」へと移りたいのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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