#656 坪内逍遥はどんな格好でやってきた?
それでは今日も山田美妙の『明治文壇叢話』を読んでいきたいと思います。
まず美妙は、逍遥の経歴から紹介します。その後…
坪内雄蔵氏がはじめて世に現はれたのは私が書生で潜ッて居る頃でした。その初陣[ウイジン]は該撒奇談[シイザルキダン]、明治十九年の出版、それを葦原[アシハラ]生といふ人が読売新聞に評して「日本始めて訳書あり」と云ッて一も二も無く褒めた。その文に接し礑[ハタ]と私も駭[オドロ]きました。しかし半信半疑、その内[ウチ]間も無く寄書[ヨセガキ]で坪内氏の答辞も有ッた、その文を見れば馬琴から出た和文体、中々の品のよさ、まづ瞠若[ドウジャク]と為[ナ]りました。
本文では、明治19(1886)年となっていますが、シェークスピアの『ジュリアス・シーザー』を翻訳した『該撒奇談 自由太刀余波鋭鋒』を出版したのは、おそらく明治17(1884)年のことです。
それから書生気質、小説神髄、概世仕伝、及び妹背かゞみなどを続けて見て感不感[カンフカン]相半[アイナカバ]しました。実に是は思ひ切ッて今打ち明けて云ふのです。
はじめて私が坪内雄蔵氏に面会したのはやはり依田氏と同じ日で、その場所も同じ三緑亭でした。氏は定刻よりすこし後[オク]れて来て、私が朝比奈知泉氏とはなして居た時でした。
不図[フト]聞けば絨氈[ジュウタン]を踏む軽い靴音、ふりかへつて見れば来会の一人でした。中身長で痩[ヤセ]がれた方[ホウ]、色は薄白くあまり濃くない髯[ヒゲ]の迹[アト]があをく腮[アゴ]に残つて一昨日[オトトイ]あたり剃ッた体[テイ]、めかすのが好きでも無ささうとは一目にも見えた。それが思ひ設けぬ坪内氏でした。それ迄に想像したのとは全[マル]で違ひました。
為朝[タメトモ]がはじめて白川御所に出た時、諸公卿[ショクギョウ]が其[ソノ]名声を想ひやッて大騒ぎして透かし見たといふ。その昔しの儘の心持ち、これが春のや氏かと屹[キ]つと眼を注いで見ました。
やはり坪内逍遥は、すでに一目置かれた大御所だったんですね。
髪の毛は多い方[ホウ]、また厚い方、やゝ左へ寄せて分けて有りましたが、あまり、櫛[クシ]に厄介は掛けたらしく無い風、度のつよい細縁[ホソブチ]の近眼鏡[キンガンキョウ]を掛けて居ました。身に着けたのは、変り縞[ジマ]の薄鳶[ウストンビ]の格子[コウシ]の背広、白茶琥珀[シロチャコハク]の襟かざりカラをば沢山にあらはして金の角[カク]ボタンを付けて居ました。時計の金[キン]はすこし目の付く処にちらつき、秘袋[カクシ]からはんけちが一寸[チョット]顔を出して居ました。坪内氏は洋服では背広を多く好む質[タチ]と見え、この日に限らず集会又[マ]たは外出の時にはフロック又はモーニングを着けるのは比較して少[スクナ]い方[ホウ]です。
カラは、英語のカラー(collar)、つまり「襟」のことです。
ということで、この続きは…
また明日、近代でお会いしましょう!
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