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#1606 第五章は柳之助が義母に対する感情を述べるところから……
それでは今日も尾崎紅葉の『多情多恨』を読んでいきたいと思います。
今日から「その五」に入ります!それでは早速読んでいきましょう!
柳之助も帰つて来て見ると、元が一人で孑然[ポツン]としてゐる平生[イツモ]よりは、内に帰つたらしい心地[ココロモチ]がする。
彼が此[コノ]姻家[サト]の母親に対する感情は、固[モト]より多少の遠慮や隔[ヘダテ]の無いではないが、自分の可愛がつた類様を可愛がつて、間接に自分までも始終世話になるので、左[ト]も右[カク]も余所々々[ヨソヨソ]しくは思はれぬ。今後の所帯[ショタイ]の始末に就いても、半分は葉山の意見、半分は此人[コノヒト]の了簡[リョウケン]も聞かねばならぬ位には考へてゐる。
其[ソレ]は単に感情の上から、柳之助が然[ソ]うまでに考へたのであるが、事実は最一層[モウイッソウ]然[ソ]うなければならぬ理[スジ]になつてゐるので。例へば、家政上経験の無いお類の手には余る事が毎々[マイマイ]あつた。その都度母親を呼立[ヨビタ]てゝ、力を藉[カ]りる事もあれば、相談を懸ける事もあり、陰[カゲ]ながら其[ソノ]保護を受けてゐたのである。独り何時[イツ]でも呑気[ノンキ]な柳之助は、米の直[ネ]も知らなければ、膳[ゼン]の魚の名を聞くでも無く、月々お類に扶持を宛行[アテガ]つて、日々に其又[ソノマタ]宛行扶持[アテガイフチ]を受けて、所帯向[ショタイムキ]の事は一向[イッコウ]御坊様[オボウサン]であつたから、お類も御坊様は敵手[アイテ]にせずに、母親ばかりを頼[タノミ]にして、万般[ヨロズ]賄[マカナ]つてゐたのであるが、那様[ソンナ]事も柳之助は悉[クワ]しく知らずにゐたのである。
ここでいう「お坊さん」とは、俗世間との関係を絶った世捨て人、つまり「世間知らず」という意味でしょうね。
古代ギリシアでは、家政学は男性の実践学おもに政治学の一環としての位置を占め、近代までの家政学は、家長=男性のためのものでした。19世紀末からDomestic Scienceと呼称されるようになり、アメリカ女性教育のパイオニアであるキャサリン・ビーチャー(1800-1878)が1829年に「女性は諸科学を家政の観念から学び、家政を科学的・実践的に学ぶ必要性」を提唱し、女性に帰属するものとなります。明治政府が掲げた文明開化の一環として採られた欧米文化の吸収の過程の中で、政府は欧米の良妻賢母主義を取り入れるため、学校教育において、和服裁縫を除き、料理・編物・洋裁の授業をすべてお雇い外国婦人教師に教授させ、家事に関する書物の翻訳も盛んになりました。「家政学」を冠した日本最初の書物は、瓜生寅[ウリュウハジメ](1842-1913)が1886(明治19)年に刊行した『女子家政学』が最初ですが、日本人の書いた原著として日本の家政学の独立の第一歩を踏み出したといわれているのは、日本女子教育の先覚者である下田歌子(1854-1936)が1893(明治26)年に出版した『家政学』です。
内証[ナイショウ]に恁[コウ]云ふ関係があつたのであるから、鷲見に帰[トツ]いだ娘なれば、既に歴[レキ]とした一家の主婦[アルジ]である、赤い切掛[キレカ]けた島田の内とは違ふものを、母親は猶且[ヤハリ]内に居る娘が親類へ泊[トマリ]にでも行つたやうな気で、昔に変[カワ]らぬ愛情を有[モ]つてゐた為に、折々お島から怨言[キザ]を云はれて苦笑[ニガワライ]をした事さへある。
ということで、この続きは……
また明日、近代でお会いしましょう!