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#1223 母はひとりで娘の行く末を案じます

それでは今日も尾崎紅葉の『三人妻』を読んでいきたいと思います。

菊住の服装は歌舞伎座で見たのと同じで一張羅。お才は打ち解ける薬は酒だと支度を急がせます。お才は母の浴衣に着替え、菊住は麻襦袢で涼みながら、別れてからの物語となります。菊住は、お才と別れてから二か月目には小〆にも振られ、その後、会社に勤めるが薄給で諦め、惨めにも神妙に暮らし、ひと月送るも切なく、人を怨むこともできずと言うと、お才は打ち笑みます。罪を作る報いの恐ろしさ、色男の末とは皆そうしたもの……。忘れても色事は慎みたまえ。よき往生は難しき体なりと思いありげに菊住の顔を覗くと、こめかみあたりに傷があり、それはと尋ねると、これもバチなれどこなたの過失と言うと、お才はあの時の傷かと驚きます。この傷こそ菊住一代の色事のカタミ。昨日、歌舞伎座で見た時の衰えた姿。今の若さでどうする気かとお才は帯の間から五十円を投げ出します。菊住は「こんなに戴いては……」と、しおらしく頭を下げ、「せっかくのこころざしなればありがたく……」と金を戴くと、お才は「みっともない!そんな真似はヤメにしやんせ!女に物を貰ったら、うれしい顔をせぬほうが男らしくていいもの!」と言います。お才は、大事な主がありながら悪い事をしては義理が済まぬ、旦那の耳に入ればそなたの身にかかわることと言えば、菊住は煮るなり焼くなりよろしきようにと言います。

楼下[シタ]には母親[オフクロ]が気を揉むこと大方[オオカタ]ならず、二時間余[ヨ]の長話[ナガバナシ]、と七八度[シチハチタビ]も柱時計に駈着[カケツ]けて、好加減[ヨイカゲン]にしておかぬか。金子[カネ]やるだけならば五分ぐらゐで済むべきに、酒を出したが第一気懸[キガカ]りな。

これもずっと気になってたんですよね。「だいたいの時間」を言うときの「五分ぐらい」の「くらい」っていつから使われているんでしょうね。

いつまで捨てゝおくとも際限[サイゲン]無ければ、自宅[ウチ]から使[ヒト]が来たというて、お才の方[ホウ]を帰すが上分別[ジョウフンベツ]。居て損のゆかぬ菊住が、夜になるとも立つことではあるまじ。さりとて其[ソノ]手ではお才が帰るまじ。最一度[モウイチド]怒られる覚悟にて、下へ呼[ヨン]で言うてやろ。言ふは善[ヨ]けれど聴く子にもあらざれば、其[ソレ]も無益[ムダ]か、と親の心は闇にあらねど途方に暮れて、立ちつ坐[ス]わりつ、椽[エン]をみし/\と蹈鳴[フミナ]らして二階を驚かし、或[アルイ]は階子[ハシゴ]を昇りゆく音を立つれば、何ぞ用かと声を懸けられ、こそ/\と逃帰[ニゲカエ]りても心は休まらず。辛気臭さに燗冷[カンザマシ]を飲めば、三杯で酡[アカ]くなり、又更に切無き思ひして、やうやく醒むる頃に梯子[ハシゴ]を下りくる足音は、また男の帰るにはあらで、午飯[ヒルメシ]いひつけにお才が下りて来て、風呂を焚いてくれとは、やれも/\。
蕃椒[トウガラシ]々々の声絶えて、町は片蔭[カタカゲ]になる頃、菊住は名残惜[ナゴリオシ]げなる顔して、裏口から帰行[カエリユ]く。跡は大方[オオカタ]母親[オフクロ]の御意見、聞かされては此[コノ]暑熱[アツサ]にいとヾ頭痛、とお才は直[スグ]に籠枕[カゴマクラ]引寄[ヒキヨ]せて、午睡[ヒルネ]してしまひぬ。此[コレ]ではどうもならず、母は独り行末[ユクスエ]を案じて、覚めたらば一言と念[オモ]ひけるに、夕暮[ユウグレ]の帰りを急ぐに紛らされて、何の事は無しに逸[ニガ]しぬ。

1935(昭和10)年5月の『世界』に掲載された寺田寅彦(1878-1935)の随筆「物売りの声」には、こんな一文があります。

納豆屋の「ナットナットー、ナット、七色唐辛子」という声もこの界隈では近ごろさっぱり聞かれなくなった。そのかわりに台所へのそのそ黙ってはいって来て全く散文的に売りつけることになったようである。

納豆売りは、唐辛子も一緒に売り歩いていたのでしょうか。

「物売りの声」には、こんな一文もあります。

七味唐辛子を売り歩く男で、頭には高くとがった円錐形の帽子をかぶり、身にはまっかな唐人服をまとい、そうしてほとんど等身大の唐辛子の形をした張り抜きをひもで肩につるして小わきにかかえ、そうして「トーン、トーオン、トンガラシノコー ヒリヒリカラィノガ、サンショノコー ゴマノコ、ケシノコ、ショウガノコー トーン、トーン、トンガラシノコ」と四拍子の簡単な旋律を少しぼやけた中空なバリトンで歌い歩くのがいた。その大きなまっかな張り抜きの唐辛子の横腹のふたをあけると中に七味唐辛子の倉庫があったのである。この異風な物売りはあるいは明治以後の産物であったかもしれない。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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