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#1616 写真にキスして涙がほたり

それでは今日も尾崎紅葉の『多情多恨』を読んでいきたいと思います。

義母が訪れた翌日、柳之助はついに出勤します。義母は老婢に湯を沸かすようにいいつけて二階へあがると、義妹のお島は炬燵に火を入れようとしています。「それどころじゃない、さぁさぁ用があるのだ」「なに?」「掃除をするのだよ」「なぜ、おっかさん」「なぜでもいいから、早く支度をおし」。お島は恨めしそうに母を見ます。はじめの約束は、墓参りに来たので、お客として来たので、泊まりに来たので、どう考えても、ひとの家を掃除に来たのではない。「この寒いのにねえ」「寝間着を持ってきて」と言って義母は忙し気に下りて行きます。「この寒いのに、ひとの家に来て掃除なんぞしなくてもいいのに!」。掃除を昼までかけてやり三人ともグッタリ、お島は椅子にもたれ、母親はぺたんと座って煙草をふかし、「お島、見違えるようになったじゃないか」と楽しそうに見回します。柳之助が帰って来ると、よその家に飛び込んだかと疑われるほど奇麗になっているので「誰か今日来るのか」と老婢に尋ねます。「旦那様の御存知ない来客があるものでございますか」と笑います。老婢に言われて二階へ行くと、住み荒した我が家の面影なく、まばゆいほど明るくなっている。「お客様はどうした」「お風呂へお出でになりました」「奇麗になったな。どうしたのだ」。老婢は大掃除の始末を明かします。柳之助は至極満足しますが、一旦蒸発したものがたちまち集合して、また胸が苦しく塞がります。こんなに家を奇麗にしたところをお類さんに見せて、喜ぶ所が見たい。ああ、寂しい、心細い。頼みになる人は死んでしまったのだ。

情[ナサケ]無い、情無い!生きてゐたらばと思ふと、身も世もあられぬほど恋しくなつて、コートの内衣兜[ウチガクシ]から急に紙包[カミヅツミ]の写真を出して、づらりと四枚畳の上に並べて、片手を支[ツ]いて、眤[ジッ]と眺めてゐたが、軈[ヤガ]て束髪[ソクハツ]の一枚を取挙[トリア]げて、生けるが如く接吻[キッス]をすると、涙がほつたりと写真の横顔を霑[ヌラ]した。

接吻と書いて「キッス」と読ませてますね。

手早く手巾[ハンカチーフ]を出して、窃[ソッ]と拭いて、次は島田のを取つて、視[ミ]てゐる最中[サイチュウ]、二人の帰つた物音に、慌て〻掻集[カキアツ]めて、紙に引裹[ヒックル]むで、衣兜[カクシ]に入れて、手巾[ハンカチーフ]を遺[ワス]れて立起[タチアガ]る。直[ジキ]に二人は昇[アガ]つて来て、柳之助の顔を見ると、泣いた目は未[マ]だ濡れてゐる、母親は何とも言はぬがお島は頻[シキリ]に見る。拭[フ]かうにも手巾[ハンカチーフ]は無し、連[シキリ]に𥉌[マバタキ]をしながら、鼻声で掃除の礼を述べる。
独[ヒト]りで居れば憶出[オモイダ]すが、母親の前では例[レイ]の紛[マギ]れて、此[コノ]日も然[サ]ほどは味気無いでもなく暮[クラ]して、夜となる。夕飯には母親の注意[ココロヅケ]で一銚子[ヒトチョウシ]付けて、食後には茶を点[イ]れて、一時[ヒトキリ]お島の琴の調[シラベ]があつて、元も呼ばれて、左[ト]も右[カク]も人数[ニンズ]であるから、それだけ賑[ニギヤカ]に十時頃まで雑談[ハナシ]をして、三人は二階に寝る。元の方便品[ホウベンボン]は殊勝ながら、都合に因[ヨ]りて母親が陰[ヒソカ]に差止[サシト]めたのである。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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