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#552 この若者なかなか変な人間で…

それでは今日も山田美妙の『花ぐるま』を読んでいきたいと思います。

第二回は、第一回の続きから始まります。寒空のした、夜中に三人の車夫が客待ちをしています。年上の二人が先に帰ってしまい、一人残された年下の車夫のところにお客がやってきます。ひたすら一目散に走って、お客を家まで届けると、門から二人の女性が出てきます。一人は阿梅[オウメ]という女性で、お客の妹のようで、その色白の丸顔を、車夫はもっと見たいと思います。もう一人は雪という名の下女のようで、二人は兄の土産を遠慮して帰ってしまいます。お客が家に入ると、代わりに下女が出てきて、多めの運賃をくれます。普段なら多すぎる分を返す性格ですが、今日は数えもせず、ふところに収めます。

不審[フシン]、なほ用事でもあるやうです、銭[ゼニ]を受取[ウケト]ッても容易に車を挽[ヒイ]て立去[タチサ]りません。あるひはそのやさしい声に撲[ウ]たれて……いや、元来[ガンライ]考深[カンガエブカ]い質[タチ]です、十時を撞出[ツキイダ]す上野の鐘、いつか月になりゆく雪気[ユキゲ]の空、「たしか阿梅[アウメ]とか言ッた」…その梅の梅の芳香[ニオイ]、前の朧夜[オボロヨ]の名残[ナゴリ]を止[トド]めた空の片端[カタハシ]もなかなかに千里[チサト]の「てりもせず」の歌をさへ思出[オモイダ]させる種[タネ]です。

上野の鐘とは、寛永寺の鐘のことです。坪内逍遥の『当世書生気質』にも、鐘の音が聞こえる場面が出てきますので、詳しくは#084を読んでくださいね。

千里の「てりもせず」の歌とは、『新古今和歌集』の大江千里(生没不詳)の歌「照りもせず 曇りも果てぬ 春の夜の 朧月夜に しくものぞなき」という歌です。照りも曇りもせず、春の夜の朧に霞む月の美しさに及ぶものはない、という意味です。

「てりもせず、くもりも果てぬ春の夜[ヨ]の」、いやさ冬の夜[ヨ]でも搆[カマ]はない…何処か中庸[チュウヨウ]を得たところがやッぱり美[ウツ]くしいものだなア」、
さて何が中庸を得て居るか、朧月夜[オボロヅキヨ]ですか、梅ですか、いやさ、その阿梅ですか…
この車夫となッて居る若者はなか/\変な人間でその口調を聞けば車夫とは見えず、それで境界[キョウガイ]を言へば紛れも無い車夫で、而[シカ]も力もあり、また熟練もあります。熟練、それを言易[イイカ]へれば気転が加はッた久しい歳月です。他[ヒト]の車を恐れて片隅[カタスミ]を小さくなッて行ッたり、鉄道馬車の軌道[レエル]に輪を挟[ハサ]んで当惑したり、車重[カジ]を急にして、乗客[ノリテ]の臍[ヘソ]を天[ソラ]に向かせたり、その手を放して客に大道軽業[ダイドウカルワザ]をさせたり、または四通八達[シツウハッタツ]の処へ掛[カカ]ると急に遅く歩いたりするやうな不出来のないのは無論の事、道の高低[タカヒク]は手先一ツ腕一ツでどうやら斯[コ]うやら目立たないほどに引くほどです。して見ると久しいあひだ此[コノ]職業をして居てそして学問をしたのでしやうか?どうも左様[ソウ]とも思はれません。が、やはり見当は大抵その辺です(これが小説家の胡麻化[ゴマカ]手段)。素生[スジョウ]を聞けば何も論は無いのです。

1882(明治15)年に東京馬車鉄道が、最初の馬車鉄道の運行を開始しました。6月25日に、新橋と日本橋の間を結び、停留所は汐留本社、新橋、終着地のみで、途中の乗り降りも自由だったそうです。10月1日には、日本橋、上野、浅草をぐるりと結ぶ環状線も竣工されます。1903(明治36)年から1904(明治37)年にかけて路線を電化し、東京馬車鉄道は東京電車鉄道となり、新規開業の東京市街鉄道、東京電気鉄道の3社によって相次いで路面電車が建設されます。その後3社は1909(明治42)年に合併して東京鉄道となり、さらに1911(明治44)年に当時の東京市が同社を買収して東京市電となります。これが現在の都電です。#069でも、ちょっとだけ紹介しています。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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