#660 1891年の四差路で一旦たたずむ
いまいちど、当ブログの読書履歴を書いておきたいと思います。
1885年6月 坪内逍遥『当世書生気質』刊行(1886年1月まで晩青堂より全17冊)
1885年9月 坪内逍遥『小説神髄』刊行(1886年4月まで松月堂より全9冊)
1886年4月 二葉亭四迷『小説総論』発表(中央学術雑誌)
1887年6月 二葉亭四迷『浮雲』刊行(第一篇1887年6月、第二篇1888年2月、第三篇1890年7月から8月まで『都の花』にて連載)
1887年11月 山田美妙『武蔵野』発表(読売新聞に11月20日、11月23日、12月6日の計3回連載)
1888年2月 山田美妙『言文一致論概略』発表(學海之指針)
1888年10月 山田美妙『花ぐるま』発表(1889年2月まで『都の花』にて連載)
1889年1月 山田美妙『蝴蝶』発表(国民之友)
1890年2月 山田美妙『明治文壇叢話』発表(9月まで改進新聞に連載)
さて…
このあと…
目の前には三本の道が広がっておりまして、いずれも山田美妙に絡んだ通路なのですが、いずれかの道を進んでは分岐点に戻り、また別の道に進んでは再び分岐点に戻るということを繰り返すことになると思われます。
その分岐点とは1891(明治24)年です。
まず、ひとつめの通路が…
美妙が文学界から葬られるきっかけを作った坪内逍遥(1859-1935)と、森鷗外(1862-1922)との「没理想論争」です。
いやぁ、ついに登場しましたね!森鷗外!
「没理想論争」は、1891(明治24)年から翌年にかけて、坪内逍遥と森鷗外との間で行われた文学論争のことです。逍遥の没理想に対して、鷗外は理想なくして文学なしと応酬しました。
このふたりのやりとりを読んでみたいのですが…
森鷗外に踏み込みたくないんですよねぇ~w
なんせ近代文学の巨人ですからねぇ~
そして、ふたつめの通路が…
美妙の幼馴染の尾崎紅葉(1868-1903)と、幸田露伴(1867-1947)の「紅露時代」です。
1892(明治25)年、尾崎紅葉は『三人妻』を、幸田露伴は『五重塔』を発表して高い人気を得て、ともに作家としての地位を確立します。明治20年代は、このふたりの作家が文学界をおおいに盛り上げたため「紅露時代」と呼ばれます。先に挙げた坪内逍遥、森鷗外を含めて「紅露逍鷗時代」と呼ばれることもあります。
さいごに、みっつめの通路が…
美妙の結婚相手の田澤稲舟[イナブネ](1874-1896)と、樋口一葉(1872-1896)の「女流作家ものがたり」です。
稲舟は、1891(明治25)年、美妙が編集していた雑誌『以良都女[イラツメ]』の愛読者そして投稿者であり、翌年には、そのことをきっかけに、美妙と恋愛関係になります。一方そのころ、一葉は1891(明治24)年に半井桃水(1861-1926)の門下となり小説の手ほどきを受けますが、恋愛の噂が流れたことにより、師弟関係は絶交となります。
さて…
この三つの道の、どの道から歩き始めましょうか…
それに関しては…
また明日、近代でお会いしましょう!
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