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#1259 後編第二十四章は、余五郎不在の状態で興津の別荘に行くところから……

それでは今日も尾崎紅葉の『三人妻』を読んでいきたいと思います。

今日から「後編その二十四」に入ります!それでは早速読んでいきましょう!

(二十四)蓄音機の無きこそ
六月の半[ナカバ]神戸の分廛[ブンテン]に紛擾[フンジョウ]起[オコ]りて、余五郎は其地[ソノチ]へ赴きぬ。

紛擾とは、もめごと・紛争のことです。

此[コノ]夏は家族を引卒[ヒキツ]れて、興津[オキツ]の海水浴に避暑の心期[ツモリ]なりしに、肝心の人が留守になりて、此[コノ]話は立消[タチギエ]になりけるが、お末[スエ]は例年の暑感[ナツマケ]別[ワ]けて今年の劇[ハゲ]しさに、御帰京[オカエリ]を待つまでも無し、と卒[ニワカ]に思立[オモイタ]ちて明日[アス]の発足と定まり、幸ひ紅梅も閑[ヒマ]の身なればと、御意に入[イリ]の徳は、是非随従[オトモ]をおほせつけられぬ。
此[コノ]春から楽[タノシ]みにせし効[カイ]も無[ノ]う、御前様[ゴゼンサマ]のお留守になりたるに、力落[チカラオト]して鬱[フサイ]でばかりをりました。明日[アス]は二番汽車でござりまするか。晦[クラ]い内の一番汽車でも、今夜の最終[シマイ]汽車でも、一刻も早[ハヤ]う参りたう存じます。興津といへば鯛の名所、お庭から垂綸[ツリ]してなど〻、十三になる女児[オンナノコ]のお末よりも勇み立ちて、ニ三百里もある所へ徒歩[カチ]で道中[ドウチュウ]するやうな、事々しき支度話[シタクバナシ]してお麻に笑はれ、それでも聞かず、種々[イロイロ]支度もあれば心急[ココロセ]かれてと暇乞[イトマゴイ]して、真直[マッスグ]に帰るかと思へば、迂廻[マワリミチ]してお艶の家に立寄[タチヨ]りぬ。

『三人妻』が連載されたのは1892(明治25)年ですが、1889(明治22)年には新橋・神戸間の鉄道が開通し、関東と関西が鉄道で繋がります。当時、神戸行きの始発は6時20分でした。1894(明治27)年10月5日、庚寅新誌社から日本初の月刊時刻表が登場します。これによると、興津に行くには、新橋発の7時25分の大阪行きに乗り、6時間後の13時37分に到着します。

思ひ懸けぬ御出[オイデ]とお艶は歓[ヨロコ]べば、思ひ懸けぬ事起[オコ]りて、と紅梅は気の無き顔。今朝本家より使者[ツカイ]にて、直[スグ]来いといふは何事かと、行[ユ]きて御用を窺[ウカガ]ひしに、此頃[コノゴロ]御前様[ゴゼンサマ]の御留守を好機[ヨキシオ]に、奥方は興津の別荘へ御保養にとて、私[ワタクシ]をも伴[ツ]れて下さる有難迷惑[アリガタメイワク]。否[イヤ]をいへば直[スグ]に御立腹、其[ソノ]報[カエシ]が恐ろしさに、難有[アリガト]う存じますと、明日[アシタ]の朝お伴[トモ]して興津へ行[ユ]くことになりたるが、貴嬢[アナタ]とは十日会はずにゐられぬ御馴染[オナジミ]を捨て、始終継子[ママコ]のやうに睨まれて、大きな声して言[モノイ]ふことも、迂闊[ウカ]と笑ふこともならぬ気むづかしやの御機嫌執[ト]りて、窮屈[キュウクツ]の思ひするは、保養よりは寿命の毒になれど、見込まれたが不運と諦めて、一月二月[ヒトツキフタツキ]の辛抱はなるべきも、其間[ソノアイダ]お目に懸かられぬが何より愁[ツラ]く、行[ユ]きたうも無きは山々なれど、逭[ノガ]れられぬ義理に責めらるゝ切なさを想ひやりたまへ。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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