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#1575 第三章の二は、鷲見が葉山に一枚の絵を見せるところから……

それでは今日も尾崎紅葉の『多情多恨』を読んでいきたいと思います。

今日から「その三の二」に入ります!それでは早速読んでいきましょう!

(三)の二
鷲見は二間[フタマ]ある二階の奥の主[アルジ]の居間に、蠟塗[ロヌリ]の台子火鉢[ダイスヒバチ]の火の無いのゝ前に、圧潰[ヘシツブ]れたやうに壁に靠[モタ]れて、窄袴[ズボン]の衣兜[カクシ]に両手を入れて、毎[イツ]見ても読めぬ千蔭[チカゲ]の万葉仮名の額を、別に読まうでもなく惘然[ボン]として見てゐると、葉山は昇[アガ]つて来て、
「如何[ドウ]したい、昨夜[ユウベ]は。好く眠[ネ]られたらう。」
「大きに失敬した。」
と気の重い顔をして、猶且[ヤハリ]潰れたまゝの居住[イズマイ]でゐる、黒綾[クロアヤ]のモーニングに藍気鼠[アイケネズミ]の綾の窄袴[ズボン]、紺遍縷[コンヘル]の外套の下と釣合[ツリア]はぬほど新しいのを着て、埃[ホコリ]だらけの黒の帽子[ハット]を稍[ヤヤ]後低[ウシロサガリ]に冠[カブ]つたまゝ。

ヘルとは、経[タテ]に粗い梳毛[ソモウ]糸、緯[ヨコ]に紡毛[ボウモウ]糸を用いて織った綾織物のことです。

「何だ、学校へ出る装束ぢやないか。」
「あゝ今朝墓詣[ハカマイリ]に行つて来た。」
「その帰路[カエリ]かね。」
柳之助は頷く。葉山は背後[ウシロ]の茶棚から夕顔の烏府[スミトリ]を出して、火鉢の灰を平[ナラ]してゐると、婢[オンナ]が台十能[ダイジュウノウ]に火を持つて来る。

烏府とは、炭を入れる器のこと、台十能とは、小型のスコップのような形をした炭や灰を運ぶための道具である十能に台がついているもののことです。

柳之助は外套の衣兜[カクシ]からピンヘツドを取出したが、まづ例の中絵[ナカエ]を引抽[ヒキヌ]いて、自分に一寸[チョイ]と見て、
「君、之を見たまへ。」
「何だい?是が如何[ドウ]したのだ。」
「まあ能く見てくれたまへ。」と推付[オシツケ]に手渡す。頼まれた通り葉山は手に取つて能く見たが、別条[ベツジョウ]は無い!其[ソノ]絵はヒンドスタンの婦女[オンナ]が餅のやうな物を入れた盂[ハチ]を抱へて、其[ソノ]一枚を片手に捧げてゐる立姿[タチスガタ]である。

ヒンドスタンとはインドのペルシア語名のことでしょうね。

「能く見て、如何[ドウ]するのさ。」
「解らんかな、能く見たまへな。」
と其[ソノ]絵を覗込[ノゾキコ]むで、後は葉山の顔を眺める。未[マ]だ解らぬか、葉山は絵探[エサガシ]でも見るやうに、左[ト]さま右[コウ]さま視てゐるのを、柳之助は堪へかねて、
「肖[ニ]とるぢやないか。」
「誰に?」
「解らんかな、妻にさ、死んだ類にさ。」
と引手繰[ヒッタク]つて、眤[ジッ]と視る。
「肖[ニ]てゐるものか。」
と慣れた事とて葉山は呆れもせず、
「気の迷[マヨイ]だよ。」と言つて聞かせる。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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