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#1194 水際に立つ美人……あれこそが才蔵!

それでは今日も尾崎紅葉の『三人妻』を読んでいきたいと思います。

音羽の別荘の奥庭の木戸を入れば、一面の桜林、何千本の花重く、人は雲の中を行くようです。桜の下に錦の幕を張り、十二人の女児の給仕をつけ、物陰の茶店で飲茶を楽しみます。花見る人には今日のために衣裳を新たに調えている人も多く、黒の紋付き袴で来る人もいれば、子の手をひき妻を連れてくる者もいます。第四商店の番頭は大茶碗で白酒を振る舞い、第二商店の会計は寿司の竹皮包みを子供たちにひとつずつ配ります。

ちやりねの道化師様[ヨウ]に装束[ソウゾ]ぎたる男、首筋[クビスジ]にその数二百許[バカリ]色々の風船球[フウセンダマ]を結ひつけて、西洋唱歌[セイヨウウタ]を謳[ウタ]ひつゝ、道化女に装[ツク]りたる侶[ツレ]にわ゙いおりんを弾かせ、拍子[ヒョウシ]をかしく舞ひながら糸を断[キ]れば、宝珠[ホウシュ]の玉[タマ]の天上のごとく、小気球[ショウキキュウ]天[ソラ]に満[ミチ]て、之も興[キョウ]になりけり。

1886(明治19)年、イタリアのチャリネ曲馬団が来日します。その興行が大評判をとったところから、「サーカス」のことを「ちゃりね」といいます。ちなみに日本に初めて来た外国のサーカスは、1864(元治元)年で、横浜で興行したアメリカ・リズリー・サーカス一座だといわれています。その後、1871(明治4)年にフランスからスリエ曲馬団が来日します。日本人のサーカスとしては、チャリネ一座から名前をとり、1899(明治32)年に山本政七らによって設立された「日本チャリネ一座」が最初であるとされています。

此外[コノホカ]に種々[サマザマ]の思附[オモイツキ]人笑はせとなりて、いづれも花は余所[ヨソ]に、此上[コノウエ]はお妾様[メカケサマ]は何処[イズレ]におはします、と足は皆[ミナ]掛茶屋[カケヂャヤ]に向きて急ぐ折から、木陰[コカゲ]より、白鳥[ハクチョウ]片手に衝[ツ]と走出[ハシリイ]でたる女房あり。手織縞[テオリジマ]のやうなる京御召[キョウオメシ]の小袖に、紋縮緬[モンチリメン]の赤前垂浅黄縮緬[アカマエダレアサギチリメン]の平縊[ヒラグケ]を片襷[カタダスキ]にして、横櫛[ヨコグシ]あらはに置手拭[オキテヌグイ]したるは、茶見世[チャミセ]の嚊[カカ]が酒買ひにゆくと見せて、水際の立ちたる美人、彼[アレ]は誰と吃驚[ビックリ]せぬもの無跡[ナアト]を追[ツ]けよと口には出さねど、其心[ソノココロ]に違ひ無き一群[ヒトムレ]、燕尾服着て魚尾[メジリ]の垂れたる男が、先達[センダツ]になりて花の雲間[クモマ]に分入[ワケイ]れば、池の畔[ホトリ]の鏡花亭の主[アルジ]、煮染[ニシメ]の品々を砂鉢[スナバチ]に盛りて、外見[ミカケ]を不味/\[マズマズ]しく、念の入[イ]りたる升田屋[マスダヤ]が庖丁[ホウチョウ]。酌につけたる小女郎[コメロウ]の馴れたる仕こなしは其理[ソノハズ]、一粒撰[ヒトツブエリ]にしたる柳橋の半玉[ハンギョク]ぞかし。
三間[サンゲン]の出店[デミセ]にも各[オノオノ]客満ちて、女主[アルジ]は八方を駈持[カケモ]ちに、面白半分の仇口[アダグチ]き〻て、遇客[ヒトアシライ]の上手[ジョウズ]と姿の意気なるに、識[シ]らぬものも此女[コノオンナ]こそ才蔵と目を着けぬ。
築山[ツキヤマ]の麓[フモト]なる四間[シケン]の掛茶屋は、本宅[ホンタク]の侍女[コマヅカイ]出入[デイリ]のもの〻娘の受持[ウケモチ]にて、茶辨当[チャベントウ]を預[アズカ]りぬ。

というところで「その二」が終了します!

さっそく「その三」へと移りたいのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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